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増上寺には、NHK大河ドラマの「秀忠の正室お江」のお墓も

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三緑山広度院増上寺

徳川家墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられていますが、二代将軍秀忠の妻

お江、そして、家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮も含まれています。

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将軍家の墓所は右手奥にある「三つ葉葵」の紋が付いた鋳抜門の先にあります

鋳抜門は、文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』だったもの。

左右5つずつの葵紋、昇り龍・下り龍が鋳抜されているのが特徴。

 

 
| 江戸城 | 07:48 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
江戸城に入城する前に徳川家菩提寺の増上寺に御参りする

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野田岩で満足し、増上寺に立ち寄ることにした。

東京タワー下を抜けていくと、そこに「とうふやうかい」がある。

うかい鳥山の系列で、お昼なら5600円ほどで食べれるのだそうだ。

ここを抜けて、裏門から増上寺へ

正式には三緑山広度院増上寺、上野の寛永寺と並ぶ徳川家の菩提寺

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増上寺

安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、

徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。

家康公がときの住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、

と伝えられています。
慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、

家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。

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三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、

朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の

勅許もありました。
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家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、

75歳で歿しました。

増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、

十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。 

私が二十数年毎日通った9階建ての本社ビルは、こんな建物に変わっていた。
heiwado
| 江戸城 | 07:08 | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |
江戸城で出現した道灌の主家「扇谷上杉」、どこかで聞き覚えがあると思ったら
江戸の発祥ともいえる「江戸館」を建てた江戸重継。その江戸氏の寺社が、自宅から
近い「喜多見氷川神社」であった。
 

さらに今年8月に、このブログで紹介した、「深大寺城跡」の城主が扇谷上杉氏だった。

扇谷と書いて「おおぎがやつ」と読むのであるが、この扇谷上杉持朝の

家宰(家老)であったのが太田道灌だったのだ


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太田道灌(おおた どうかん)とは、

室町時代の武将。武蔵守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを

汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、

家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。

江戸城を築城した武将として有名である。

 

そうなんです、太田道灌は、大きな戦を30度戦い

すべて打ち勝っている強い武将なのでした。

江戸城を造ったのが太田道灌とのイメージで土木に優れた学者だと思っていたら

大違いでした。

| 江戸城 | 07:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
太田道灌による江戸城築城はいつ?
江戸城の築城はいつ?

江戸城が築城されたのは、1457年でした。(徳川家康江戸城入りは1590年)

15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の

家宰(家老)であった太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城した。

徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。


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   江戸氏が治めていたころの模様。日比谷まで海であった。
 

道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や

万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。

それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や

水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。

 

その後太田道灌が主家・上杉定正に殺害され、江戸城は扇谷上杉氏の所有するところ

(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。

 

ついで1524年(大永4年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。

江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に

至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から利根川・

荒川を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために

重要な役割を果たしたと考えられている。

 

秀吉に後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府(静岡)から転居した

権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に

江戸に入城し、居城とした。旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われた。

 

徳川家康と太田道灌は、生きていた時代に150年もの差がある。

イメージでは、徳川家康が太田道灌に命じ江戸城を造らせた感じだが、

これは、まったく勘違いであった。

太田道灌が造り上げたベースを徳川家康、秀忠、家光の3代将軍が拡充

させていったのが、江戸城なのである。

| 江戸城 | 07:13 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
東京に住んでいるのに「江戸城=皇居」のことをあまり知らないことに気づいた
江戸城を造ったのは太田道灌(おおたどうかん)であると歴史で習った。

しかし、いつどのようにして江戸城を築城したのか詳しく知らない。

doukan 太田道灌

それで、江戸城について調べてみることを思い立った。

“江戸”という名は、2年ほど前にこのポルタジョイエのブログの中で

「喜多見氷川神社」を紹介したときに現れていた。

 http://peaceman.jugem.jp/?eid=1197

「喜多見氷川神社」は天平十二年(740年)の創建と伝えられる

時は下り永禄十三年(1570年)のことで、領主江戸刑部頼忠により社殿が

修復され武運長久を祈願した。

その孫喜多見勝忠は天和二年(1682年)に神領五石を寄進、

慶安二年(1687年)に神社として再建された。

昭和六十三年に火災により社殿焼失、平成二年に現在の社殿が完成した。
hikawa

特にこの由緒で目を引く江戸氏は、江戸頼忠は武蔵国一帯を治めた江戸重継の末裔

江戸重継は、平安時代に「江戸館」を造っていた。

江戸氏はかつて秩父党と称した桓武平氏秩父氏の流れをくみ、平安末期に

武蔵国江戸郷に領地を得て、現在の皇居付近に居館を構え、源平合戦の際には

源頼朝に味方して勢力を拡大するも、南北朝の争乱で勢力は衰え、

江戸から現在の喜多見付近まで落ち延びていた。

室町時代に世田谷領主となった吉良氏に仕え喜多見氏を称するようになる。

その後北条氏に仕えた吉良氏が北条氏の滅亡によって衰退すると徳川家康に

仕えて江戸時代に喜多見藩という小大名に取り立てられるがそれも長くは続かず

元禄二年(一六八九年)、喜多見氏の分家筋であった喜多見重治が朝岡直国と

刃傷事件を起こしたことに連座して取り潰しとなった。

 

江戸城一帯を元々治めていたのは、私が毎日通勤で使う世田谷区喜多見駅の

名前の元である「喜多見氏=江戸氏」であったのだ。

身近に感じられたので少し江戸城について調べてみようと思う。

| 江戸城 | 07:30 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |

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