スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | pookmark |
旅の記念に民芸を「インドネシア・バリ島」

バリ島のことを少し書いてみよう

一時期バリの魅力にとりつかれ何度か訪ねた。

5度目の頃だったと思うが、バリの北部、チャンディダサの

アマングループが経営するamankilaアマンキラ」に宿泊した。

サンスクリット語で「やすらぎの丘」を意味する「アマンキラ」は

チャンディダサ近くのマンギスにある。

果物のマンゴスチンの語源となった村は、緑濃い山が海岸まで迫る。

斜面に点在する35のコテージは、水の宮殿ティルタガンガから

インスピレーションを受け造られた。

bali1 bali4

風に揺れる椰子の葉、波の音を聞きながらまどろむ午後は

なにものにも代えられない。

 

ここには、特別のコースがある。

ランチを山の上のコテージで取ることができるのである。

500mほどの展望コテージで絶景をみながら昼食をいただける。

 bali7bali6

ホテルの専用4駆に乗り頂上近くのコテージまで

帰りにTengananトゥンナガンに立ち寄ってくれた。

ここは、バリアガの村、バイアガとは、バリ島の先住民で、日本のアイヌのように

伝統を守る民族の村なのだ。

 

聖なる山アグン山と海を結ぶ直線上に長方形の敷地をとり、塀でぐるりと囲む。

ここで共同で生活を行っている。

入り口の門で心づけをして中にはいる。

イカット織りや、占い、木彫りなど伝統の工芸で彼らは生計をたてている。

特に「グリンシン」はここだけの技術かもしれない。

縦糸、横糸ともに複雑な模様を染め抜いて織り上げるダブルイカットは

世界的にも貴重なテクニックである。

90cmの細いスカーフを織るのに9ヶ月という当然高価すぎる。

これは、観るだけにして写真の彼女が織ったイカットを買い求め

家の壁に掛けて楽しんでいる。
balibali8

このトゥンガナンは、カゴの名産地でもある。
門から出たところに多くのカゴの工場があり、天日で乾かしていた。

| 旅の記念品 | 12:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旅の記念に民芸を「オーストラリア供Ε澄璽Εン」

オーストラリアにも3度行った

 

最初に行った場所が、オーストラリア北部、コロコダイルの里

ダーウィンである。

この地は、日本との関わりが深い。

昔から技術の高い日本、それも三重県の潜水夫がこの街を経由して

木曜島まで出向き、珊瑚の採取を行っていた。

木曜島には日本人墓地もある。

また、第2次世界大戦では、日本の空軍がゼロ戦でオーストラリアを攻撃

したのが、この地であった。

戦争博物館があり当時の模様が歴史として残されていた。

それまで、オーストラリア大陸を日本が攻撃したことすら知らなかった。

abo 


また、この地はオーストラリア原住民アボリジニの住む街である。

アボリジニの美的感覚は、神秘的で今も伝統は生かされている。

買い求めたのは、手造りの小物入れである

亀の形にアボリジニ独特の彩色が施されている。

 abo1

ダーウィンいい町だ

知人の車を借りて、郊外に走り出てみた。

広々として広大、まさにないもない。

1日走って誰ともすれちがわなかったことがあると友人が言っていたが

もし故障したら、危険でもある。

郊外へ出てすぐ、車も前を動物が横切った。

なんと「ワラビー」であった。それも自然の

街からはなれると、夜カンガルーがぶつかってくることがあるそうだ

大きいものとぶつかると車が大破する場合もある。

それで、このあたりの車は、でかい!バンパーをとりつけている。

これは飾りではなく、命を守るための「カンガルーバンパー」なのだ。

 
| 旅の記念品 | 07:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旅の記念に民芸を「オーストラリア・ゴールドコーストにて」
オーストラリア、ブリスベン空港に降り、そこからバスでゴールドコーストに。

ゴールドコースト市はクイーンズランド州の州都ブリスベンの南約78キロメートル

に位置する。ゴールドコーストの北から南までは約60kmある。

内陸には世界自然遺産にも指定されているスプリングブルック国立公園がある。

この地にはネラング川という大きな川が流れており海岸から内陸にかけての

広い地域に渡って湿地帯が広がっていたが現在は人口の水路が広範囲に

渡って整備されており、水路沿いに住宅が建てられている。

ビーチ

市の東部は海岸線が北から南まで約57kmにわたって広がっており、

オーストラリアでも非常に人気のあるサーフポイントがいくつかある。

また、宿泊したホテルは、有名なゴルフ場の真ん中に建てられていた。

こんな街で仕事をするのも辛いものであった。

grass 

仕事の合間に街に出た。

当時、アンアンだったか?の表紙にケン・ドーンの絵が使われていた

その印象がつよく、お店でこのガラスの色を見て

思わず買ったのが、工芸作家のガラスの香水入れである。

オーストラリアの強い日差しをこの小品に映しこんでいる。

grass1 

もう1つは、水と緑をイメージする小品であるが

大オーストラリアを感じさせる記念品となった。

| 旅の記念品 | 07:31 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
旅の記念に民芸を「イギリス・コッツウオルドにて」
先日書いたロンドンから4年後、たぶん8回目のイギリスであろう。

イギリス、ロンドンの北、羊毛の里「コッツウオルド地方」を訪ねた。

古い文化の残る、イギリスの最も美しい地方

コッツウオルド

 cot2

その中心部チップ・イン・カムデンの古い市場のそば

アンテークショップで見つけた

オールド・コーヒーカップ

ちょっと薄めの藍色が上品で

おもわず手に取ったものである

 

ロンドンで1泊、ここでレンタカーを借りて1週間の旅の始まり

ホテルは、ロンドン以外では1泊のみ予約をいれているが

後は、車で走りながらその日の宿を探した。

自由な旅は、いいものである。

 

1泊のみ予約をいれたのは、カッスル・クームにあるマナーハウスである。

 cot

マナーハウスとは、領主の館で、まさにお城をホテルにしたものなのだ。

予約をとることは、非常に難しいが

出版社にいるロンドンの友人が、予約を入れてくれた。

感謝、感謝!!

 cot1

写真でみるように本当に素晴らしい館であった。

これだけの歴史的建造物に宿泊することは、今後もないであろう。

ディナーも素晴らしく、勿論正装が必要であった。

| 旅の記念品 | 07:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旅を記念に民芸を「英国・ロンドンにて」
イギリスにも何度か訪れている。20年以上前になるが、

仕事でロンドンのオールド・ボンドストリートにある「ハルシオン・デイズ・エナメル」
のお店を訪ねた。

オーナーのスーザン・ベンジャミン女史とお会いして2階の彼女のオフィスで
お話をうかがい、

1階の奥の深いお店でハルシオン・デイズ・エナメルの品を説明していただいた。

その時の記念の品である。

かわいいものばかりだ。(その後いろいろ蒐集し、この他今十数点持っている)

 写真は、くまのプーさん、 ピーターラビット。

 halhal2


この「くまのプーさん」の中には、ルチルクオーツの宝石をお守りとしていれています。

エナメルボックスの歴史

エナメルボックスは、18世紀中頃のジョージ王朝時代に「つけぼくろ入れ」として

ヨーロッパに生まれました。
イギリスのエナメル産業は、ミッドランドのビルストンとロンドン・テムズ川沿いの

バタシーの2都市を中心に発達し、中でもバタシーのヨークハウス工場におる

転写技術の開発により、クラシックなデザインとモノクロの色調を特徴とした

すばらしい作品を次々に発表しました。その卓越した作品ゆえ、

イギリス製エナメル製品を”バタシーエナメル”とコレクターは呼んでいます。

一方ビルストンでは、フランスの優れたエナメル製造業者がサウススタフォードに定住し、

以降のエナメル産業の中心地となりました。宮廷文化の栄えた18世紀は、

何か役立つ物を送るという以上に、人に喜んでもらえることが贈り物として大切な

時代であり、ビルストンのエナメル製品はそうした時代を背景として、ジョージ王朝の

香りと共に多くの人々に広まっていきました。

その後、エナメル産業は1820年代までのナポレオン戦争や産業革命による

エナメル職人の流出により衰退し、1840年までにその姿を消してしまいます。

 

復興の20世紀


1970年スーザン・ベンジャミン夫人経営のロンドンにある有名なアンティークショップ

『ハルシオン・デイズ』とエナメルメーカーのビルストン&バタシーエナメル社とにより、

18世紀の伝統技術そのままに「ハルシオン・デイズ・エナメル」の名のもと

エナメルボックスが製造・復興されました。

 

2世紀も前に作られた物と同じクオリティとエレガントなデザインそして円熟した

クリーミーな艶に特徴づけられるエナメル作品は、ジョージ王朝時代の

ボンボニエール(ボンボン入れ)や時計、オルゴールを含めたバラエティ豊かな

オブジェ・ド・アートとなったのです。

それは紛れもなく”ハルシオン・デイズ(平穏で楽しい日々)”すなわち

「古き良き時代」ジョージ契い了代を表しているのです

 

伝統に培われたその技法は、エレガントで緻密な美しさを作りだします。
「Halcyon Days=平穏で楽しい日々」という名前にふさわしい、
優雅で美しいものばかりです。
hal1

「ハルシオンデイズ エナメル」は
故エリザベス皇太后・エリザベス女王・エジンバラ公・

チャールズ皇太子指定の「ロイヤルワラント(イギリス王室御用達)」を受けていますが、

四つの指定を全て受けているのは同社のほかに5社しかなく、骨董品を取扱っている

企業としてはハルシオンデイズ エナメルだけなのです。
| 旅の記念品 | 07:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旅の記念に民芸を「ビルマ(ミャンマー)にて供
ミャンマーは、都合5回訪ねた。

タイ・バンコックからミャンマーエアーの飛行機に乗ることが一番怖かった。

今も最も危険な航空会社といわれている。

当時は、今よりも危険を感じた。

機体は、イギリスの古いホッカー2発のプロペラ機だった。

乗り込むと、まずいパサパサのパンとジュースを出された。

隣に乗ったタイ人の宝石バイヤーの話によると、1週間前にも

1機落ちたが、IATAに加盟していないこと、独裁政権のため秘密にしていると

聞かされた。

rangoon
こんなときに言わなくていいと思う・・・・

2度目の訪問のとき買い求めた「象牙の天女」

まだワシントン条約の輸入制限の前であったので日本に持ち帰れた貴重なものである

 tenshi

ちょっとミャンマーについて

Myanmar

東南アジアの西端にある国。正称はミャンマー連邦Union of Myanmar。

旧称ビルマBurma連邦。

1988年クーデターにより政権を掌握した軍事政権は、1989年国名をミャンマーに、

首都ラングーンをヤンゴンに改称した。

さらに2006年10月、首都をヤンゴンから同国

中部の都市ネピドーNay Pyi Taw(Naypyidaw)へ変更した。

東から北にかけてタイ、ラオス、中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接し、

南西はベンガル湾に面する。面積67万6578平方キロメートル、

人口4879万8000(2007推定)。

 

ビルマ王朝

ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。

バカンは最初小さな城市であった。アノーヤター王(在位1044年 - 1077年)の時に

王都になった。

パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、ミャンマー東北部に住むタイ系の

シャン族が強盛になったが、やがてビルマ人によるタウングー王朝が建国され、

一時はアユタヤ王朝やラーンナータイ王朝、雲南辺境のタイ族小邦を支配した。

17世紀にタウングー王朝は衰亡し、南部のモン族が強盛となるが、18世紀中葉

アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。

イギリス統治時代

コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする英緬戦争で

敗れて、1885年に滅亡する。

1824年から1826年にかけて戦われた第一次英緬戦争では、ビルマがインドを

支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求、イギリス側が拒否すると

武力に訴えたが敗れた。イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争

では、ビルマは国土の半分を失い、1858年から1861年にかけて新首都マンダレーを

建設して遷都するが、1885年の第三次英緬戦争で王朝は滅亡し、1886年に、

イギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となる。

1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領になる。

1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を

駆逐(ビルマ戦役の始まり)し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とする

ビルマ国が建国された。

1948年にイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立するが、直前の

1947年7月19日にアウンサンは暗殺された。

初代首相には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。

独立直後からカレン人が独立闘争を行い、ビルマ共産党は政権を離脱するなど、

政権は当初から不安定な状態にあった。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景

にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、

国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、

ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。

現在は、この軍事政権がミャンマーを掌握して、アウンサン・スーチー氏を軟禁している。
| 旅の記念品 | 07:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旅の記念に民芸を「ビルマ(ミャンマー)にて」
まだ「ビルマ」と呼ばれていた時期であった

空港もラングーンであった。

この街で、国際宝飾入札会が1年に1回、開催された。

国営の宝石公社が主催する国をあげての国際入札会であるので

警備も厳重で、ホテルの各階段や庭には、マシンガンを持った兵士が立ち

外出も監視されているような雰囲気であった。

 

ビルマの宝石は、ルビー、翡翠、南洋真珠が高い品質を保ち

特に、ルビーは、ピジョンブラッド(鳩の血)といわれる最高品質の色が

出るのは、ビルマだけである。

翡翠(ひすい)も中国では、産出せず、本物の翡翠はビルマから

中国に輸出されたのである。この原石を買うため、多くの中国人、

台湾人、香港人が多く来ていた。

私は、南洋真珠を買うためにこの国を訪ねたのである。

 silv1silv


時間が空いたとき、街にでて、写真の「銀の小箱」を買った。

たぶん古いものだと思うが、通訳もいない為、

なにを説明されてもわからないで買ったため、

説明を書けないが、好きである。
もちろん手彫りであることは、間違いない。

この時、もう1点、素晴らしいものを見つけた

玄武(北を守護する四神)の置物である

金額は日本円で 2万円ぐらいだったと思ったが、ビルマチャットの手持ちがない。

 

欲しい。日本円かドルで買えないかと交渉したが

チャット(ビルマ通貨)でないと絶対にダメの一点張り。

どうやら、街にスパイがいて、外貨を受け取ったと通報されると

逮捕されるようだ。

もしかすると使用した私も捕まるのかもしれない。

 

軍事政権の怖さを感じた。

| 旅の記念品 | 07:21 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
この皿を買い求めた街スペインのロンダとは?
ronda
 ロンダ(スペイン)
ロンダ周辺には新石器時代から人が定住していたとみられている。

ロンダの起源は、紀元前6世紀頃に住んでいたケルト人で、彼らはこの地を

アルンダ(Arunda)と呼んでいた。後にフェニキア人が近郊に村をつくり、

そこをアシニポ(en:Acinipo)と呼んだ。古代ギリシャ人に征服されたアルンダは、

ルンダ(Runda)と改名された。


現在のロンダの基盤は、第二次ポエニ戦争後、ローマの将軍スキピオ・アフリカヌス

のカルタゴ遠征の最中につくられたとされる。

紀元前3世紀終わりにはヒスパニアがローマに平定された。

ラウルス城が築かれたことで周辺から人口が集まり、ユリウス・カエサルの時代には

都市の規模になった。ルンダの住民もアシニポの住民も、ローマ市民とされた。

711年、イスラム教徒がイベリア半島へ侵入、713年にロンダは戦いらしいことを

せずにベルベル人サイード・ベン・ケサディ・エル・セブセキの元に下った。

都市はイスン=ランド・オンダ(Izn-Rand Onda、城の都市)と改名され、

アルアンダルスのタクルンナ県の中心地となった。

アブー・ヌールの息子ナサルが王国を継承後殺害され、ロンダ王国は

セビーリャ太守アル=ムタティードのものとなった。

 

1485年5月22日、長期の包囲戦後にアラゴン王フェルナンド2世がロンダを

陥落させたことで、ロンダのイスラム支配は終わった

征服後、イスラム時代に建てられた建物の多くが刷新され、メルカディーリョや

サン・フランシスコといった郊外定住地へと市街が拡大していった。
ronda1
                               <ロンダの闘牛場にて>

18世紀、現在のロンダの顔である、ヌエボ橋と闘牛場が建設された。

これ以降、バンドレーロと闘牛士のロマンティックな伝説が始まったとされている。


ロンダの要塞であったラウレル城は、退却するフランス軍によって荒らされた。

19世紀から20世紀、ロンダの経済活動は引き続き僻地の経済活動であった。

近郊のセラニアには20世紀初頭に鉄道が敷かれ、繁栄の時代を経験した。

ロンダにあるレストランは、コスタ・デル・ソルから日帰りで毎日やってくる観光客

の舌を満足させている。素晴らしい自然・歴史遺産がロンダをアンダルシア有数の

観光地にしている。
昨日書いた「英国製のウイロー模様皿」がスペインに残るのは、いかにこのロンドが
歴史ある街でお金持ちがいたかの証明でもある。
我が家にあるもい1点のウイロー模様小皿を紹介しておきます。
これは、国産である。(オールド・ノリタケであればいいのですが・・)
uiro

| 旅の記念品 | 07:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
旅の記念を民芸に「スペイン・ロンダにて」
今まで多くの国を訪ねた。

その思い出の品が部屋のあちこちにある。

これらをみることで、訪ねた国・街を明確に思い出すことができる。

 willow

少しご紹介しようと思う。

まず、1990年にスペインに行ったさい、地中海側のコスタ・デル・ソルから

山間に入り込んだ断崖の街ロンダで買い求めた

イギリス製の「オールド・ウイロー柄の大皿」である。
(大きさは、洗面器のサイズである)

普通は小物しか買わないのであるが、どうしても欲しくなり

旅の途中であったが買ってしまい、手持ちで日本まで持ち帰った。

 willow1

18世紀、ヨーロッパ諸国は中国景徳鎮磁器を大量に輸入していた。

ヨーロッパ中を中国趣味が被っていたのである(シノワズリーChinoiserie)。

どうしても磁器の製作方法を会得することができない彼等は、中国から

もたらされる磁器に畏敬の念を禁じ得なかった。それらを宝物のように扱った。


willow4 

1700年代に中国から輸入された景徳鎮の皿を見本にイギリスで

造られていったウイロー模様の皿(1860年製ミュージアム展示品)


willow3 

この時ロンダで私が買った皿の写真。

たぶん1860年ごろのものであろう。(日本では江戸時代末の幕末期)

 

このパターンには悲しい物語が秘められている。

この図柄は男女の悲恋がもとになったとも言われている。

(実際には主人公の二人はあまりウィロー・アイテムの中には登場しないことが多い。)

中国の地方官吏の息子と、地元有力者の娘との物語である。

空に二羽の鳥が描かれているが、これは両親らの反対にあって一緒になれなかった

二人が、辛い終末の末に鳥に化身して飛び立った姿を表している。

| 旅の記念品 | 07:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

CALENDAR

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    
<< June 2020 >>

SPONSORED LINKS

RECOMMEND

SELECTED ENTRIES

CATEGORIES

ARCHIVES

RECENT COMMENT

RECENT TRACKBACK

MOBILE

qrcode

LINKS

PROFILE

SEARCH