スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - | pookmark |
奈良市長殿よりメールを頂戴しました

奈良の旅の模様を何度かに渡って書きました。

その中で東大寺大仏殿から飛翔する龍の写真を紹介しましたが、

これを奈良市役所のホームページにメールいたしましたところ

奈良市長 仲川げん様より下記のようなメールをいただきました。

nara40 

○○様

初めまして、仲川げんと申します。

この度は貴重なお写真をお送り頂き

本当に有難うございます。

 

確かに鶴や龍にも見える、奇跡的瞬間?のように

見えますね。

HPも拝見いたしましたが、明るく表情豊かな

お写真がたくさんあり、楽しませていただきました。

 

○○さまが思わずシャッターを切られたように、

私も奈良の空の「ふとした瞬間」が大好きです。

 

視界を妨げるものがほとんどないことも要因ですが、

仏像や鹿よりも、私は奈良の空に魅せられています。

 

来年は平城遷都1300年にあたり、

各種秘仏公開等も準備しておりますので、

ぜひ再び、奈良にお越しくださることを、

心よりお祈り申し上げております。

では、取り急ぎ御礼の返信まで

 

一般の私にご丁寧なメールしていただくとは、光栄でした。

奥深い奈良、これから何度か訪れ古代の文化に触れ、

現在の奈良を知っていこうと思っております。

 
| 日本を旅する・奈良 | 18:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良 特別便「龍神様」
 私には、龍神様が関わりになることが不思議に多い

sugi 

今回の旅のなかでも、大神神社の「巳の神杉」の祀られているのは龍である。

また、大仏殿から飛翔する龍の姿の雲を観た。


ryu

家に帰ってきて思い出したのが、薬師寺 壁画殿で平山郁夫作「大唐西域壁画」を

拝観したが、当時平山郁夫の助手をされ西域に同行していた画家傅益瑤さんから
10年ほど前に
いただいていた絵がこれである。

 

fu1fu2 

何と「大仏と龍」の墨絵であった。
偶然としてかたずけられない、因縁を感じる。

| 日本を旅する・奈良 | 07:46 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良昇2鵑瞭猯匹領垢任蓮五つの不思議な体験をした。
 「五つの謎」

turu
ryu
まず、不思議な雲を観た

〔師寺本堂の上に翼を広げた「鶴の雲」を観た

東大寺大仏殿から飛び立つ「龍の雲」を観た

(雲は流れており、そのタイミングでしか形は現れない。

 誰かがそのタイミングで私たちに見せたように感じられる)

nan 

不思議な白い玉が写った

E貘膸南大門の中で、霊体と思われる白い球を写した。

ぢ膺誠声劼里歓戚「巳の神杉」の根元に霊体を写した。

sugi 


ザ弘羶声辧,山の登り口の案内板の
真ん中に「龍」を観た

(同じように妻の写真を撮ったが、このように写らなかった)

nara50 

東京でも、しょっちゅう空を見て雲を意識しているが、

はっきりした形を感じたことはなかった。

やはり1300年の古都「奈良」がなせる業であるのかもしれない。

 

白い○は、理由が分からない

私のカメラは「CANON G9」コンパクト・デジタルカメラとしては

高級なものである。たとえ逆光であったとしても、このような白い球は

現れることはまず無い。

 

偶然と済ますには、たった2日間の中で集中して起こったことの

理由付けができない。

1300年を迎える、「あをによし奈良の都」 これからは、何度か訪れようと思う。
| 日本を旅する・奈良 | 07:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良宗〆能目的地 大神(おおみわ)神社へ向かう
今回の奈良行きは、妻の「三輪山にお参りしたい。」から始まった。

三輪山は、大神神社を神社として祀られるが、お山自体が神である。

まず、大神神社(おおみわじんじゃ)に参り、狭井神社に参り、そしてお山に入る。

oomiwa

大神神社(おおみわじんじゃ)には、本殿がなく、山そのものをご神体山として

神聖視します。本社の拝を終わったのち西にまわり摂社の狭井神社に参拝する。


oomiwa1

御神体山の三輪山に登拝するためには、この社でお祓いを受けて、

登拝口から登り始めるのである。

nara43

木綿襷(ゆうだすき)を掛け、三輪山を登り始める。

一見やさしそうな山であるが、標高467メートル、平野部からいきなり盛り上がって

いるから、なかなか険しい。

山の細い流れの先に滝がある。

参拝者の中にはこの滝でみそぎをして、白衣に着替える人もいる。

三島由紀夫の「豊饒の海」で主人公がみそぎをしたのがここである。

この滝から山道はさらに険しくなっていく。

山頂には「奥津磐座(おきついわくら)」が鎮座している。

 

入山からおよそ2時間で往復できます。
お山にはルールがあり、写真も禁止です。


若い人も多く登っているが、不思議と皆が

「こんにちは、頑張って!」と挨拶をします。

街ですれ違ってもまったく挨拶をしない他人が、お山では

全員がちゃんと挨拶をする。

山の空気がそうさせるのだろうが、なかなかいいものだ。

下山してきたら、4時で、もう入山できない時間となっていた。

かなりきつい山歩きだったが、疲れは感じなく、すがすがしい気持ちになれた。

| 日本を旅する・奈良 | 07:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良察\こΠ篁此崚貘膸」を翌朝訪ねる
toudai2 

東大寺
東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、

西南部は興福寺の境内と接していた。

南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、

その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。

中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。回廊は、

現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の

中央には「北中門」があった。

南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には

東大寺福祉療育病院などがある。 大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、

鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院」(じょういん)と呼ばれる地区で、

開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂、法華堂(三月堂)などがあり、その南には

鎮守の手向山八幡宮(東大寺とは別法人)がある。

toudai5 

 

金堂(大仏殿)

国宝。当初の大仏及び大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたもので

あったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。

大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は

中世の作、頭部は江戸時代の作である。


聖武天皇は天平15年(743年)、大仏造立の詔を発した。

当初、紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立の始まった大仏は、その後現在地の奈良で

あらためて造立を開始。天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。

治承4年(1180年)の平重衡の兵火で大仏殿は焼失、大仏も台座や下半身の

一部を残して焼け落ちた。その後、大仏と大仏殿は俊乗房重源(ちょうげん)の

尽力により再興され、文治元年(1185年)に大仏の開眼供養、建久6年(1195年)

には大仏殿の上棟供養が行われた。

この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567年)の松永・三好の合戦によって再び炎上した。

大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま、

露座で数十年が経過したが、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、

大仏殿とも復興した。

現存する大仏の頭部は元禄3年(1690年)に鋳造されたもので、元禄5年(1692年)に

開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709年)に落慶したものである。

 toudaitoudai1

東大寺からもどり旅館で荷物をピックアップしてタクシーを呼んでもらい、

JR奈良駅まで行き、桜井市三輪駅に向かう。

駅から徒歩5分ぐらいで目的の「大神神社」に着いた。

| 日本を旅する・奈良 | 07:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良此―蒜颪靴燭里101年の歴史ある宿「江戸三」
edo 

宿泊したのは、春日大社壱の鳥居すぐそばの「江戸三」

それぞれの部屋が萱葺き屋根の一戸建て離れ

明治40年、奈良公園の離れで料亭として営業を始めたのだそうだ。
edo1
客室名の多くが「太鼓」「銅鑼」という楽器名になっているのは、
電話がなかった頃、鳴り物(楽器)を鳴らして客室係を呼んでいた名残だそうです。
どの客室から呼ばれたかすぐに分かるように客室ごとに違う鳴り物を使っており、
それがそのまま現在の客室名になったのです。

創業当時より志賀直哉、小林秀雄、池波正太郎、
藤田嗣治、小出楢重などに代表される、実に多くの文人・墨客が訪れました。

その当時、奈良の高畑周辺は多くの
文人・墨客が居を構え、さながら、
近代文壇・画壇交流の場となっておりました。
様子は、多くの小説・随筆・絵画となり、現在に残っております。
夕食は料理旅館だけあって、美味しかったです。
鮎そうめんははじめての体験でした。

edo2edo3edo4edo5
料理の一部です

| 日本を旅する・奈良 | 07:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良后―嫺大社にお参りする 「挨拶する鹿」が参道に
kasuga 
春日大社

奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が

藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、

春日神と称したのに始まる。

社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、

香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、

御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。

ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が

行われていた可能性も出てきている。

藤原氏の隆盛とともに当社も隆盛した。平安時代初期には官祭が行われるようになった。

当社の例祭である春日祭は、

賀茂神社の葵祭、

石清水八幡宮の石清水祭とともに

三勅祭の一つとされる。

850年(嘉承3年)には武甕槌命・経津主命が、940年(天慶3年)には、

朝廷から天児屋根命が最高位である正一位の神階を授かった。

延喜式神名帳には「大和国添上郡 春日祭神四座」と記載され、名神大社に列し、

月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。

 kasuga1

お礼する鹿
kasuga2


参道に餌の鹿せんべいをあげるとお礼をする鹿がいた。

それも1匹で行動して、人をみかけると頭を上下する。

学習したのだろうが、若い鹿なので名物鹿になりそうである。

| 日本を旅する・奈良 | 07:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良検ヾ嫂刃他紊梁跡2
 

鑑真のお寺

10数年ほど前、鑑真の故郷「中国・揚州」を訪ねたことがある。

実際は、江蘇州の役所の高官の方に案内していただいたのでよく分からないまま

連れられ訪ねたのであった。

南京から近いですよといわれ、車に乗ったが、なんと片道5時間。

彼らにとっては、この距離は近いという感覚なんだろう。(さすが中国は大きい!)

そのとき、大明寺を訪れた。

ここから、鑑真は748年に命をかけて遠い日本に向かったと思うと胸が痛んだ。

kousyukousyu1 

また、2年前中国南部の広州を訪ねた。この地にも鑑真が遭難したあとすごしたお寺があり

お参りすることができた。

そして今回の唐招提寺である。

現代でも大変な距離を移動したことがわかる。


ぜひ、次回は、鑑真和上の
脱活乾漆を拝顔したいと思っている。

| 日本を旅する・奈良 | 07:44 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良掘ヾ嫂刃他紊梁跡
 鑑真日本への渡航


天平5年(733年)、遣唐使とともに渡唐した普照と栄叡(ようえい)という

留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは

西暦742年10月のことであった。

普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦

いただきたいと鑑真に申し出た。

だが鑑真の弟子たちは渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。

弟子たちの中に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日する

ことを決意する。


しかし、当時の航海は命がけであったうえに、唐ですでに高僧として名の高かった

鑑真の出国には反対する勢力もあった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの

渡航計画は挫折の連続であった。ある時は船を出す前に関係者の密告で

普照と栄叡が捕縛され、ある時は船が難破した。

748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島

まで流されてしまった。

陸路揚州へ戻る途中、それまで行動をともにしてきた栄叡が病死し、高弟の

祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。

753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、

鑑真は当時すでに66歳になっていた。


 遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は、

翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に到着した。

同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに

菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。


鑑真は日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺唐禅院に

住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた

大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、

天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76歳であった。

ganjin
死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像を造り、現代まで唐招提寺に
伝わっている。

脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法両手先は木彫)

| 日本を旅する・奈良 | 07:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
奈良供\こΠ篁此ヾ嫂刃他紊痢崚眈慶鷸」を訪ねる
nara20 

薬師寺から徒歩10分、鑑真和上の建立した「唐招提寺」に向かう

開祖鑑真は5度の航海を失敗した末、6度目で天平勝宝5年(753年)に

ようやく日本に到着できた。

12年がかり、自らの視力まで失ったすえの日本への来訪であった。

742年           遣唐使に日本行きを乞われる。

748年           5次渡航失敗

海南島に漂着

753年           鹿児島に到着

ganjin 

当時すでに唐の高僧であった鑑真は、「授戒大師」と称されていたが日本の要請に応じ

艱難辛苦のすえ、日本に到着、まず東大寺に迎えられた。

そこで戒壇院を建立する。

その後、71歳のとき新田部の地を天皇より賜り唐招提寺を建てたのである。

nara21 

鑑真和上の唐招提寺


『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、

新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から

譲り受け、寺としたものである。

寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」など

の意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、

仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。

つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。

| 日本を旅する・奈良 | 07:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

CALENDAR

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< May 2020 >>

SPONSORED LINKS

RECOMMEND

SELECTED ENTRIES

CATEGORIES

ARCHIVES

RECENT COMMENT

RECENT TRACKBACK

MOBILE

qrcode

LINKS

PROFILE

SEARCH