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「食は広州に在り」中国・広州・香港の旅<7>
旅の4日目
香港での目覚め
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九龍が目の前に広がり気持ちいい。
香港の朝の定番は、「陸羽茶室」へタクシーで行き、飲茶である。
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この店は古い香港のイメージを残す唯一のお店ではないかと思う。
日本にいるとき考えていたスケジュールでは、朝は「陸羽茶室」
昼は「福臨門」でフカヒレスープと飲茶と考えていた。
今回は、福臨門はあきらめ、残念だがいたしかたない。
19時香港発の列車で広州にもどる予定だったが、もっと早い列車に変更して
再度広州の街を歩くことにした。
それで、陸羽茶室をあとにやはりビッグショッピングモール「ランドマーク」へ
一通りみてみたがやはり欲しいものが無い。隣接しているオーガニックの食料品店が
ディスプレイの美しく、取り揃えられている品々もいい。
紅茶やオーガニックレーズン(ポール・ニューマンの農園で造られた)等を買い求めた。
大俳優であったポール・ニューマンはいつのまにかオーガニック農場主になっていた。
| 世界の旅・中国 | 07:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「食は広州に在り」中国・広州・香港の旅<5>
食後、旧租界であった沙面に行く。
珠江に面した洋館が並ぶ沙面。日本の出島と同じで、
広州で外国人が居住できる唯一の場所であった。
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沙面は北岸に浮かぶ楕円形の小島で、東西900m、南北300mの人口島である。
18世紀中ごろ、外国人貿易商のための倉庫用地として埋め立てされ、外国商船が
入港するさいの埠頭だった。
つまり日本の長崎出島と同様に、もともとは外国との接触をよしとしない政策を
採る清朝によってつくられた外国商人用の居住区であった。
この島に入るには2つの橋、フランス橋、イギリス橋しかなかった。

列強の中国侵略の足がかりとなったアヘン戦争後の1861年、清の敗戦により
治外法権をもつ租界として、沙面島はイギリスとフランスに割譲された。
今も数々の洋館が並んでいる。
通り沿いには樹齢100年を越すガジュマルの街路樹。商館や領事館の建物が
租界時代と同じかたちで残っている。
今は、それぞれの建物にお店がはいり、スターバックス・コーヒーのお店もある。
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川沿いにホワイトスワン・ホテルがある。
前回訪れたときも(17年前)このホテルで食事をした。
珠江のたおやかな流れが目の前に広がる気持ちのいい空間で、ゆったりした時間を
すごすことが出来る、大好きな場所である。
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まだまだ観光スポットは多くあるのだが・・・
タクシーで花園酒店(ガーデンホテル)へ戻ることにした。
| 世界の旅・中国 | 07:41 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「食は広州に在り」中国・広州・香港の旅<4>
ヒスイ市場を抜けると広州の繁華街下九路にでた。
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大晦日であったので普段でも多い人の流れが大群衆となっていた。
この繁華街には、有名な「広州飯店」「蓮香楼」「陶陶居」など
レストランもある。
お昼時期だったのでなんとか、飲茶に挑戦してみようと
「陶陶居」に入る。
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残念ながら私は、お粥とスープしか食べられない。
本当に「食は広州にあり」といわれた食品の街広州で…・
| 世界の旅・中国 | 07:15 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
「食は広州に在り」中国・広州・香港の旅<3>
次の目的地へ
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タクシーに乗ろうかと思ったが前に地下鉄の駅が目に入った。
乗ってみようと思い立ち切符を自動販売機で買う。
チケットではなく、ICチップのはいった
「黒いメダル」だった。
次の駅「長寿路」で降車。
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外は浅草的な感じ。雑貨のマーケット
地元の人々の信仰を集める「華林寺」へ向かう
驚いたことに通りに面し翡翠の店ばかりである。
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お寺の境内にはいると線香の煙が立ちこめ、入り口は小さいのだが中は広い。
黄金の仏像が何百体と並んでいる。不思議な空間であった。
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禅宗の開祖である達磨大師縁の地であるとのことである。
達磨大師は、527年インドから海のシルクロードを伝って広州に到着、
中国に禅宗を布教した。
大師の庵がこの地にあった。清代になり 宗不禅師が大雄賓殿などを建設。
これが1655年に華林寺となった。
500羅漢で有名な寺で、羅漢の1つ善徳尊者はマルコ・ポーロ像である。
路地の左右には翡翠の専門店が並び、露店も多くでている。
広州で最も有名なヒスイ市場である。
| 世界の旅・中国 | 07:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「食は広州に在り」中国・広州・香港の旅<2>
大晦日
この1日は、広州市内観光をする。
但し、お腹の状態は最悪。まるきり水状態で、食べられない。
観光も自信がないのだが、トイレがある場所のみ行ってみることにした。
ホテルからタクシーで「陳氏書院」にタクシー代は 15元(220円)安い。
中国で有数の大金持ちの陳一族が建てた建造物である。
1890年から4年の歳月がかかったのだそうだ。
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入り口正面に水難よけの獅子像が並び、縦3列、横3列の計9つの部屋で構成され、
中心に本堂がある。

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屋根は随所に佛山の石湾陶器をふんだんに使い、特に中心部の屋根は長寿を願う
8仙人と富を呼び込む金魚(玉)満堂の装飾陶器。縁には紫檀の木彫り
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| 世界の旅・中国 | 07:36 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
「食は広州に在り」中国・広州・香港の旅<1>
徹底的に食べ歩こうと思っていた今回の中国広州の旅でしたが、
実をいいますと
出発する当日、朝から胃の具合が悪い。
お腹の丈夫さは、自信があったのだが午後になって下痢となってしまった。
医者に行く時間もないので薬を買い成田エクスプレスに新宿から乗車。
不幸中の幸いは、嘔吐や腹痛がない点である。

夜11時すぎ中国・広州白雲国際空港到着
JALマイレージの無料チケットで来たので当然ガイドも無し。
ガイドブックを読むと空港から2番のバスが宿泊の「花園酒店」に行くことに
なっている。
空港ロビーで正面の案内所で聞くともうバスがないと、
エアポートリムジムに乗れと言う。
値段を聞くと 300元だ・・・高すぎる、日本円で5000円以上になる。
バスは、1人 300円ぐらいだったと思う。
しかしながら、わけもわからないタクシーに乗るのも疲れるので
しょうがなくこれに乗ることにした。
ANAは、これぐらいの時間に着くが、市内への直通バスを出しているらしい。
JALも、もう少し、乗客のことを考え街への連絡方法を考えてほしいものだ・・

年末であるのに機内が空いていた、人気がないのもこのへんにあるのか・・・
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タクシーは約30分高速道路を走って市内に入る。やはりかなりの距離である。
日本であれば1万円で行かない距離である。
1泊目は広州では、歴史ある巨大ホテル「花園酒店」だ。
客室1000室を誇る広州代表するホテルである。
| 世界の旅・中国 | 07:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
孫文の辛亥革命の舞台・広州(広州No.4)
1911年、孫文の指導した辛亥革命により清朝が倒され、翌年、南京に
中華民国政府が成立した。
孫文
1921年、孫文は越秀山南麓にあった督練公所で中華民国の非常大統領に就任した。
孫文はこれを含め広州にて3度、革命政権を樹立している。
2月15日、広州市政庁が設置され、初代市長に国民党の孫科が任命された。
これを広州市制の始まりとする。

1924年1月、中国国民党第一回全国大会が広州で開かれ、国共合作が正式に成立する。
同年5月、革命軍幹部養成を目的とする黄埔軍官学校が創設され、校長に国民党の
蒋介石が、政治部主任に共産党の周恩来が就任した。
農民運動の指導者を育成する農民運動講習所も設立され、毛沢東もここの所長を
務めたことがある。1927年、共産党の葉剣英らが広州起義により、広州コミューン
を成立した。
1932年彼の指導する第十級路軍が抗日に立ち上がったが、1938年10月21日、
広州は日本軍により占領された。

中華人民共和国成立後、広州は広東省の省都となり、葉剣英が市長に任命された。
1957年中国で唯一の輸出商品商談会、広州交易会が開催され、
以降毎年春と秋2度の開催となり現在まで続いている。
こうして広州は主要貿易港としての地位を回復し、華南最大の都市へと発展した。
現在では中国三大金融センターの一つとして、中国経済の重要な地位を占めている。
| 世界の旅・中国 | 07:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
阿片戦争(広州No.3)
アヘン
1839年、欽差大臣林則徐が広州に到着。
外国商人よりアヘン約2万箱を没収、虎門海岸で廃棄した。
翌1890年、阿片戦争が勃発。
1841年5月、イギリス軍は広州に入り越秀山山頂の鎮海楼を占領、司令部を置いた。
広州市北郊の三元里村の農民で組織された平英団が砲台を包囲するなど抵抗を続けたが、妥協派の清朝高官はこれを解除させた。
イギリス海軍は北上してアモイ、寧波、上海、鎮江を占領し南京に迫り、
1842年8月、香港島の割譲、広州、アモイ、福州、寧波、上海の五港開港などを
内容とする南京条約が締結された。
奇しくも本日は、広州から電車で香港に来ている。150年以上前にイギリスは香港を
割譲されたのだ。これを意識しながら香港も歩いてみる。(後日ブログに書きます)

1943年、追加条約の調印によりイギリスは関税自主権、治外法権、
土地賃借権を獲得、沙面に租界を建設した。
翌年、フランスは黄埔条約により同様の利権を獲得、沙面はイギリス・フランスの
共同租界となった。
阿片戦争以降貿易の中心は上海へと移り、広州は失業者のあふれる街となり、
中国近現代革命の主要舞台となっていくのだ。
| 世界の旅・中国 | 07:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
海上の交易の中心地・広州
シルク
広州は、中国で最も古くに開かれた貿易港で、海のシルクロードの起点として
栄えてきた。
古代の東西貿易に関しては西域のシルクロードが有名だが、海上による交易も盛んで、
その中心は広州だった。
661年(唐顕慶六年)、中国初の税関“市舶師”が広州に設けられた。
741年(唐開元29年)には広州城の西に外国人居住区“蕃区”も設けられている。
751年に広州を訪れた鑑真和尚は当時の広州の繁栄ぶりを次のように記録している
「江中に婆羅門(インド)、波斯(はし)、崑崙(東南アジア)等の舶(ふね)
有りて、その数を知らず。並びに香薬珍宝を載せ、積載すること山の如く、
舶の深さは六、七尺なり。獅子国、大石国、骨唐国、白蛮、赤蛮等、来往居住する
もの種類きわめて多し」と海上交易の盛んだったありさまを書いている。

唐代の史籍によると当時広州には12万〜20万のアラブ人、ペルシア人が
居住していたという。唐滅亡後、福建から移ってきた劉氏が広州に大越国を建国、
翌年、国名を“漢”とした。
これが広州にできた二つ目の王朝で歴史上は南漢(917-973)とよばれる。
劉氏をアラブ人だったとする説があるがその真偽は分からない。
宋、元、明と歴史は流れ王朝が変っても広州の対外交易港としての地位は変らなかった。鎖国政策をとった清朝ですら外国船に対して広州一港に限り通商を認めていた。
しかし、繁栄を続けていた広州の歴史は、アヘン戦争によって大きく変った。
| 世界の旅・中国 | 07:31 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
12月30日、本日より中国・広州への旅、歴史をおさらいする
広州へは2度目の訪問になるが、前回行ったのが17年前の事なので、
かなり変貌していることを期待する。
前回はまだ直行便が無かったため、香港乗り継ぎで飛行機で入った。
広州交易会の参加であったので多くの人が広州に集まり活況であったことを覚えている。
簡単に広州の歴史をおさらいしておく
広州
広州は2000年以上の歴史を持つ由緒ある町だ。位置は香港から内陸に約200km、
今は広九鉄道(新幹線)で香港から1時間半でつながる。
4000年以上前の新石器時代にすでに“百越”人が居住し、紀元前10世紀頃には王国が
存在していたといわれる。
BC214年、秦は嶺南地方を統一、南海郡をおき郡都を“番禺”(今の広州)とした。
これを広州史の始まりとされる。
秦の将軍趙佗は、秦崩壊後のBC206年、南越国を建国、武王と称し越秀山に越王台を
築き、広州を都とした。
その領土は東部が福建省西部、北部が南嶺、西部が広西チワン族自治区西部、
南部が南シナ海に及んだ。BC111年、南越国は漢王朝により滅ぼされ、交州に属した。
226年、呉の孫権は交州を分割し、合浦以南を交州、以北を広州とし、
これが“広州”の名の誕生となった。
| 世界の旅・中国 | 07:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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