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「坂之上の雲ミュージアム」から問い合わせをいただきました

小説の中に登場する末松謙澄(すえまつけんちょう)1855-1920
官僚政治家・文学者が愛用した懐中時計について

松山の「坂之上の雲ミュージアム」から問い合わせをいただいた。

suematu

末松謙澄とはどんな人か・・・豊前国生まれ。
伊藤博文のむすめ婿である。明治維新後官界に入り、イギリスに留学。
帰国後、伊藤系官僚の一人として活躍。のち衆議院に転じ、大成会に属した。
第二次伊藤内閣の法制局長官、大三次伊藤内閣の逓信相、第四次伊藤内閣の

内相を務めた。
日露戦争時には英仏で輿論誘導に努め、戦後枢密顧問官。子爵。
「防長回天史」の編纂、演劇改良、国家学会の育成などさまざまな分野で活躍した。
伊藤博文に娘の婿として認められた人物なのだ。

 

この末松謙澄氏が生前使っていた懐中時計がウオルサムであった。

その時計について、製造年とか、型番などわからないか?

とのおたずねであった。

 

本来ウオルサムであれば、ムーブメントを見ればシリアル番号が打刻されて

いるので、その番号で製造年とモデル種類が明確に分かるのであるが、

ご遺族の所有物なのでケースは開けられないため、

写真があったので推定した。

しかし、文字盤に書かれているWALTHAMのロゴデザインと、ケースの形で

「リバーサイド」モデルと推定できた

当時ウオルサムは、マキシマスを頂点にリバーサイド、バンガード、ロイヤル

など世界最高レベルの時計ムーブメントを生産していた。

 

この同型の時計は、故川端康成が愛用し、リバー=川、サイド=端

意味が川端そのもので、私のための時計だと周りの人に言っていたウオルサムの

代表的ムーブメントの時計であった。

年代は、1910年代であろう。

当時の教員の初任給の15倍はする高級品であった。

さすが伊藤博文の娘婿、大臣をつとめた末松謙澄氏が

持つだけの素晴らしい懐中時計である。

 

たまたま、私の知人が秋山兄弟の親戚筋にあたることもあり、

身近に感じ「坂之上の雲」改めて読み直しだしたところである。

 
| 歴史 | 07:17 | comments(8) | trackbacks(0) | pookmark |
天皇と並んだマッカーサー将軍の写真の意味するもの

1945年9月10日、昭和天皇を戦犯として裁くことが、アメリカの政策であるとの

決議案が、アメリカ議会に提出されました。 

この決議案の背景には、アメリカ本国と連合国とに沸き起こった、

天皇の戦争責任を追求する世論があったからです。

同年9月中旬、新たに外務大臣になった吉田茂は、昭和天皇に招かれ、

皇居を訪れました。

昭和天皇の用件とは、マッカーサー将軍に会いたいということでありました。

昭和天皇の方からマッカーサーに会いたいと切り出したのである。

9月20日午後、吉田は、昭和天皇の意向を伝えるため、マッカーサー将軍を

訪れましたが、マッカーサーは天皇陛下の自尊心を傷つけるような事が

あってはならないと、GHQではなくアメリカ大使館に招待することになりました。

ghq
    GHQであった旧第一生命館、現在はDNタワービルに生まれ変わる

お互い、激しい争いを行った後でも、相手側に礼を尽くす、これが古今東西、

人としてあるべき姿である。
1945年9月27日午前9時50分、シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇を

乗せた車が、アメリカ大使館公邸に向かって、皇居を出発しました。

tennou

10時5分過ぎ、レセプションルームで出迎えたマッカーサーは、昭和天皇を部屋の

奥へと案内し、写真撮影の後に2人の会見が始まりました。

欧米に植民地化された国々の指導者達がそうであったように、マッカーサーは

天皇陛下が命乞いをするものだと思っていましたが、昭和天皇が語った言葉は、
「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と

行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に

委ねるため、お訪ねした 」と・・・
この時、マッカーサーは感動し、
「私は、この瞬間、
私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを
感じとったのである」と述べています。

35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は

変わり、マッカーサーは、戦勝国側の将軍として、本来見送りをしてはいけない事に

なっていましたが、思わず、自ら昭和天皇を玄関まで見送りました。 

マッカーサーにとって、最大の好意の表れだったのです。  

これを機に、マッカーサーは親日家となってゆきました。  

この
わずか、35分の会談が、その後の日本占領体制に大きく影響し、

アメリカは日本を重要な信頼のおけるパートナーとし、良好な日米関係

築いてゆく事ができ、日本は高度経済発展を遂げる事ができたのです。

昭和天皇の責任ある姿勢と、マッカーサーの
寛容、自由、博愛を重んじる姿勢が

日本を救ったのです。

もし、米国でなくロシアが日本を統治していたら今頃日本という国は無かった

かもしれません。

この寛容、自由、博愛という精神は、フリーメイソンの心なのです。

マッカーサーは、フリーメイソンの高位のメンバーだったのです。


 
| 歴史 | 07:07 | comments(6) | trackbacks(0) | pookmark |
新憲法で、「天皇は日本国の象徴」と表記されるようになった

GHQ側は日本に「マッカーサー草案」を渡すと、その具体化を急いだ。

白洲はホイットニー准将に呼び出され、外務省翻訳官の小畑薫良氏と2人で

「マッカーサー草案」の全文を一晩で日本語に訳すよう要求された。

そしてそれをやり遂げたのである。


白洲次郎自伝によると 翻訳作業中 

<天皇の地位を規定して、草案が「シンボル・オブ・ステーツ」となっていることが

 我々を惑わせた。

 小畑は白洲に「シンボルというのは何やねん?」と大阪弁で問いかけた。

 白洲は、井上の英和辞書を引いてみたら?と応じた。


 「やっぱり白洲さん、
シンボルは象徴や」

 新憲法の「天皇は日本国の象徴であり」という一文は、こうして1冊の辞書によって
 決まった。>


tennou
 

現在の日本国憲法は、白洲次郎と小畑薫良の二人による一晩の決死の翻訳で

作り出されたのだ。

これが、法学者が理屈をこねくり廻すことなく、シンプルで明解な憲法が出来た
理由だったかもしれない。


 
| 歴史 | 07:12 | comments(23) | trackbacks(0) | pookmark |
白洲次郎がたずさわった新日本国憲法公布までの裏話

白洲次郎は、敗戦の年の暮れ、吉田茂に請われ日本政府の

終戦連絡中央事務次長に就任した。それにより占領期間中、GHQ当局との

すべての折衝に当たることとなった。

 
GHQ当局が推進した諸改革のうち、最も大きなできごとが

「新憲法の制定」であった。

新憲法は、マッカーサーのGHQが基本性格について日本側に示唆を与え、

それをもとにして日本人自身の手で作り上げたと考えているようであるが、

新憲法は紛れもなく、彼らが作った憲法なのである。


ghq
 

マッカーサーが日本側に初めて憲法改正の要を説いたのは、

敗戦の年の十月初旬、近衛公との会見の時であった。

このあと近衛公は佐々木惣一博士に新憲法づくりを委嘱したが、これは頓挫。

十月末、幣原内閣の中、松本烝治国務相を責任者とする「憲法問題調査委員会」が

設置された。しかし、松本博士の作った憲法草案は、明治憲法第四条までの条項を

ほとんどそのままで、GHQが許容する内容ではなかった。

それでも昭和21年2月3日GHQに提出された。

果たせるかな、この松本草案は、QHQに拒絶された。

 

それから、10日後GHQは、彼らの作った「マッカーサー草案」を提示してきた。

 

そして半年後、昭和21年11月3日、新憲法は「マッカーサー草案」にいくつかの

修正を施した後、公布された。

これが「日本国憲法」なのだ。

日本側が作った憲法草案は、否定され、「マッカーサー草案」の憲法が

現在の日本国憲法なのである。

 

このマッカーサー草案は、ホイットニー准将によると「たった1週間で作った」と語ったとの

戦後史があるが、これは事実ではない。


マッカーサー将軍が豪州の地にあって「日本本土侵攻作戦」を開始したとき
からすでに、
憲法草案の作業に取り掛かり始めていたのである。


占領したらどのように占領国を治めるかを作戦の中に入れていたのだ

余裕が違う。これでは、日本は勝てるわけがなかった。
白洲次郎は、米国と戦争になり敗戦、東京は焼け野原になる。
それを見越して東京の郊外「鶴川村」に疎開した。
そこまで読めるのは日本人では、彼だけだった。


 
| 歴史 | 07:52 | comments(6) | trackbacks(0) | pookmark |
新選組局長、近藤勇直筆の掛け軸が京都市内で発見された

先日、幕末の京都で活躍した新選組局長、近藤勇(1834〜68)直筆の掛け軸が

京都市内で見つかったことが分かった。

「英雄」をテーマにした自作の漢詩で、近藤が活動資金調達のために

豪商などから金を借りる際にお礼として書いたものと見られる。

近藤直筆の掛け軸は数点しか見つかっておらず、近藤の人間像を知るうえで

貴重な発見という。

kondou1 

掛け軸は縦196センチ、横63センチ(書は縦136センチ、横60センチ)。

同市内の美術店が08年に大阪府内で入手して所蔵していたものを今月、

広島県尾道市の医師が購入した。幕末を中心とした歴史博物館

「霊山(りょうぜん)歴史館」(京都市東山区)に持ち込まれ、木村幸比古

学芸課長(幕末史)が筆跡や落款(らっかん)などから真筆と判定した。

 

 書の詳しい内容は未解明だが、「英雄」に対する心情を披露し、最後に

「剣客士 近藤書」と書かれている。

 木村課長によると、近藤らが関東から入洛(にゅうらく)した文久3(1863)年

ごろに書かれた掛け軸(東京国立博物館所蔵)と形式などが似ており、

同時期の書と見られる。

同年、近藤らは武功を評価されて「新選組」の名を与えられ、倒幕運動の

過激派志士の取り締まりに当たった。

大阪や京都の豪商らから強引に金を借り、こうした書を残すことがあったという。

木村課長は「漢学者の頼山陽(らいさんよう)の書を好み、まねをしていた近藤の

筆跡に間違いない。憧れの武士となって意気揚々としていた当時の近藤の様子が

伝わってくる」と話している。


kondou龍源寺前の近藤勇像
 

週末自転車で走る武蔵野・野川沿線の大沢地区に近藤勇の誕生の地があり

お墓もある。

東京都調布市の人見街道ぞいの龍源寺が近藤勇の菩提寺である。

東京の里山ともいえる静かな田舎から、何故こんな恐ろしい剣客が出たのか不思議だ

近藤勇

幕末期、新選組局長。武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市)

宮川久次郎の三男として生まれる。幼名勝五郎のち勝太。

剣を天然理心流宗家3代近藤周助の試衛館(しえいかん)に学び、

1849年(嘉永2)にその養子となった。

1863年(文久3)2月将軍徳川家茂(いえもち)上洛(じょうらく)に先んじて、

門下の土方歳三、沖田総司、山南啓助らを引き連れて浪士組に加わった。

京都守護職支配下に属して新選組を組織し、京の治安維持に努めた。

 
| 歴史 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
英国王室の結婚にまつわる物語

1937年“王位を捨てた恋”と呼ばれ英国王室を揺るがした出来事は

離婚暦のあるアメリカ人女性と結婚するため王位を捨てた

エドワード8世の物語であった。

 win


英国では、離婚暦のある女性を王妃として認めないという不文律がある。

エドワード王子が王位をついでエドワード8世に即位したが、その年。

王である前に一人の男性であり、自分の心のままに従いたく、

ウォリスとの結婚のために退位するのに後悔はないとして、王位を捨てた。

 

私が次に述べることを信じてほしい。愛する女性の助けと支え無しには、

自分が望むように重責を担い、国王としての義務を果たすことが出来ない
ということを。


(But you must believe me when I tell you that I have found it impossible to carry

the heavy burden of responsibility and to discharge my duties as King as I would

 wish to do without the help and support of the woman I love.)」という言葉で

win1
                                                                      王権放棄の証書
名高い退位文書を読み上げた。

在位日数はわずか325日で、1483年エドワード5世以来453年振りに

未戴冠のまま退位した国王となった。

この一連の出来事を「王冠を捨てた」または「王冠を賭けた恋」とも言う。

 

放送終了後に、王族達と最後の食事を摂った元国王エドワードは、

日付が変わった12月12日深夜にポーツマス軍港から出航し、イギリスを去った。

エドワード8世は、退位後ウィンザー公爵となったのだ。

 

何故か、それ以来多くの皇族が離婚することになる・・・・

ウイリアム王子の父親チャールズ皇太子をはじめ

 

 
| 歴史 | 07:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
江戸安政時代というのは、日本の歴史上、地獄のような年だったと思う
幕末安政時代、恐怖が江戸市民を襲った
この状況で、浮世絵師「広重」は、江戸を描いたのだった。
 

(1853年嘉永6年 6月3日 浦賀に黒船でペリー艦隊が来航)

1854年 安政元年=嘉永7年 安政東海・南海地震

1855年 安政2年 安政の大地震

1856年 安政3年 暴風雨と高潮で被害

1858年 安政5年 江戸大火、コレラ流行

             日米修好通商条約で横浜、函館、長崎開港

             安政の大獄

 安政の大獄は、

1858年安政5年)から1859年(安政6年)にかけて、江戸幕府が行なった

弾圧である。

江戸幕府の大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、勅許を得ないまま

日米修好通商条約に調印し、また徳川家茂を将軍継嗣に決定した。

安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件である。

弾圧されたのは尊皇攘夷や一橋派の大名公卿志士(活動家)らで、

連座した者は100人以上にのぼった。

形式上は第13代将軍・徳川家定が台命(将軍の命令)を発して全ての処罰を

行なったことになっているが、実際には大老・井伊直弼が全ての命令を発した

 

死刑・獄死

吉田松陰………長州毛利大膳家臣、斬罪

橋本左内………越前松平慶永家臣、斬罪

頼三樹三郎……京都町儒者、斬罪

安島帶刀………水戸藩家老、切腹

鵜飼吉左衛門…水戸藩家臣、斬罪

鵜飼幸吉………水戸藩家臣、獄門

茅根伊豫之介…水戸藩士、斬罪

梅田雲濱………小浜藩士、獄死

飯泉喜内………元土佐藩士・三条家家来、斬罪

日下部伊三治…薩摩藩士、獄死

藤井尚弼………西園寺家家臣、獄死

信海……………僧侶、月照の弟、獄死

近藤正慎………清水寺成就院坊、獄死

中井数馬………与力、獄死

隠居・謹慎

一橋慶喜………一橋徳川家当主

徳川慶篤………水戸藩主(9月30日に免除)

徳川慶勝………尾張藩

松平春嶽………福井藩

伊達宗城………宇和島藩

山内容堂………土佐藩

堀田正睦………佐倉藩

太田資始………前掛川藩

川路聖謨………江戸城西丸留守居

大久保忠寛……江戸城西丸留守居

中山信宝………水戸藩家老(9月27日に免除)

松平忠固………上田藩

本郷泰固………川成島藩

土岐頼旨………大目付・海防掛

石河政平………一橋徳川家家老

| 歴史 | 07:02 | comments(1) | trackbacks(1) | pookmark |
勝海舟と西郷隆盛が江戸を戦火から救った愛宕神社の歴史
愛宕神社は慶長8年(1603年)、徳川家康の命により

江戸の防火の神様として祀られました。

主祭神は

火産霊命(ほむすびのみこと)

 

罔象女命(みずはのめのみこと・水の神)

大山祇命(おおやまづみのみこと・山の神)

日本武尊(やまとたけるのみこと・武徳の神)

が正面社殿に祀られています。

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明治元年3月13日、勝海舟と西郷隆盛は愛宕山で会談し、山上からの眺めを

見ながらどちらからともなくこう言ったと伝えられている。
「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」
その後、三田の薩摩屋敷で江戸城の無血開城の調印が行われたという。

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愛宕神社の「男坂」 急な85段の石段は「出世の石段」と呼ばれる。

江戸時代・増上寺参拝の折に徳川家光が山上にある梅が咲いているのを見て、

「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と言ったところ、讃岐丸亀藩の家臣

曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功し、

馬術の名人として全国にその名を轟かせた


また、
万延元年3月3日、18人の水戸浪士たちはここに集結したのち、

愛宕神社に参詣。

雪の降る中を江戸城桜田門へと向かい、大老井伊直弼を襲撃したと伝えられています。

様々な歴史に彩られた、江戸東京400年の歴史を代表する神社の一つです。

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日本放送協会(NHK)の前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、

この愛宕山に放送局を置いて、1925年の日本初のラジオ放送

この地から発信した事から愛宕山にNHK放送博物館が置かれている。

| 歴史 | 07:22 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ペリーは、琉球に9隻の軍艦を残し、幕府に開国を迫るため黒船として浦賀に出現した

「黒船」

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1853年浦賀に4隻の黒船が現れた。
この時の江戸の様子は

「太平の眠りをさます 上喜撰 たった四はいで 夜も寝られず」


蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎと

かけた皮肉)という狂歌に詠まれている。

 

上喜撰(じょうきせん)は、緑茶の銘柄(ブランド名)。宇治の高級茶。

本来の銘柄名は喜撰で、その上等なものを上喜撰(あるいは正喜撰)と呼んだ。

喜撰は六歌仙の一人、歌人の喜撰法師に由来する。

1853年、ペリーによる浦賀への黒船来航(蒸気船)とかけた狂歌で

幕府の狼狽ぶりを皮肉った。

もし、幕府が攻撃したら残りの9隻の軍艦がさらに江戸に駆けつけ

砲弾をあびせる手はずになっていたようだ。

欧米の力と幕府の力の差は歴然としていた。

ペリーに従ったのは幕府側老中 阿倍正弘の正しい判断だった。

 

当時日本が所有する大型船は、千石船(せんごくふね)と呼ばれていたが、

千石船の総トン数は 約百トンであった。

ペリー艦隊の旗艦「サスケハナ号」は3千8百24トン

全長 78メートルの大船。


日本人から観たら、鋼鉄の山が浮かんでいると感じたに相違ない。

この大きさの鋼鉄製の船が4隻、突如現れたらまさに脅威である。

十代の頃 坂本龍馬は、まじかで、この山のような黒船を見たのだ
その驚愕ぶりは想像できる。

 
| 歴史 | 07:56 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
小説「テンペスト」の主人公「寧温」のモデルは、通詞「牧志朝忠」か?

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琉球王朝末期の実在する人物英語通訳であった
牧志朝忠(まきしちょうちゅう)が、

ペリーをはじめ異国人との交渉の窓口となっていた。


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ここには、日本の島津藩との深い関わり合いがあった。

革新的路線で幕政の改革を推し進めた島津斉彬(なりあきら)は、幕府の琉球での

異国との通商容認という方策を利用し、琉球を通じフランスとの間で

軍艦の購入や貿易を展開することを構想、実行していた。


さらに、薩摩藩は琉球政府の人事にまで介入し、

協力的でない三司官(大臣)座喜味盛普を罷免に追い込んだ。

その中で、通詞であった牧志朝忠は、斉彬派であったためトントン拍子で

出世し、日帳主取(ひちょうぬしどり)にまで任じられた。

一介の通訳が、今の外務次官級になっていったのだ。


このあたりが、小説の主人公「寧温」
が10カ国語に通じ、ペリーとの外交交渉を

行ったという話に結びつく。

ところが、1859年島津斉彬が急死すると、日本の薩摩藩でも保守派が実権をにぎり

斉彬派が一掃された。琉球王朝でも薩摩斉彬派が一掃された。

牧志朝忠は、捕縛、拷問され自白しないまま鹿児島への護送中死亡した。

 

この牧志朝忠を主人公に仕立て、女が男になり科挙を通り政府の役人に

出世していく物語に池上永一氏が脚色したのが、今回の小説「テンペスト」

なのかなと私は思っている。(あくまで私個人の推測です)

| 歴史 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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