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平安京の宮城(大内裏)跡を歩く
平安京の造営はまず宮城(大内裏から始められ、続いて京(市街)の造営を

進めたと考えられます。

都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、皇居と官庁街を含む大内裏が設けられて、

その中央には大極殿が作られた。

後方の東側には天皇の住まいである内裏が設けられた。

 

「大内裏」とは、いわゆる宮城で、王宮・官衙(役所)が建ち並んでいた。

正庁である朝堂院をはじめ、宴を催すための豊楽院(ぶらくいん)、内裏、

民部省、宮内省、兵部省、左右近衛府、中和院、真言院、大蔵など、

重要な官衙施設があった。

「内裏」とは、内裏の中にある天皇の私的な居住空間。

正殿の紫宸殿をはじめ日常の生活の場であった清涼殿などがある。

(現在の京都御所は、江戸時代まで天皇の居所(内裏)であったが、

場所は、まったく異なる。かつての内裏は現京都御所より南西へ4劼曚

行った千本出水辺になる。)

今回はこの平安京の内裏があった地域を訪ねた。

 

1895年の平安遷都千百年紀年祭に際して、歴史学者・湯本文彦氏の

提唱により、京都府は平安京条坊、大内裏殿舎の位置、大極殿跡(現在の碑の

地点)などを確定したのだそうで、その位置に碑が造られていたので幾つか探し

当てられた。


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平安京内裏内郭回廊跡


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平安京内裏承香殿跡


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平安京内裏弘微殿跡


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平安京内裏清涼殿跡

| 京都 | 07:35 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
「平安京」メインストリート 朱雀大路は、現在の位置は、「千本通り」にあたる

紅葉の高尾山に話がそれていたが、再度京都の平安京を訪ねる旅にもどります。


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                                 「羅城門」

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                    朱雀大路


794年「羅城門」をくぐると目の前に朱雀大路の大道がまっすぐに伸びていた。

平安京の時代、朱雀大路は、28丈(約84m)もの幅がある、まるで滑走路の
ような大路で
あったそうである。

しかし今では、JR東海道が道を塞ぎ、縦にも山陽本線が「丹波口」「二条駅」と電車の

駅と線路と町が出来ていて、細い「千本通り」が北に伸びている。

 

一方通行を自転車で逆走していくと、丸太町通りとの交差点に

北西には大極殿跡の説明板が。南東には朝堂院跡の説明板がありました。

そしてその先の公園に、「大極殿址」のりっぱな碑が残されていた。


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平安京内の平安宮(大内裏)は、南北1.4km、東西1.2kmだったそうで、周囲は築地、

濠などで囲まれていたのだ。(平安京全体は、およそ5km四方の大きさ)

国政、儀式、行事を行う宮殿と官舎、天皇の住まい関連の建物からなっていた。

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「朝堂院(八省院)」の規模は、東西180m、南北450mあり、回廊で囲まれていた。

天皇の即位、外国使節の謁見などの儀礼、国事など重要な朝政がここで行われていた。
寄棟造りの
「大極殿」793年に建築が始まり、795年に完成している。


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その後、周囲の建物が次々に建て増しされる。815年には、大掛かりな大極殿の

修理が行われている。

だが、876年、1058年、1072年と相次いで焼失し、そのたびに再建された。

平安時代末、1177年の火災で焼失、以後は再建されることはなかった。


 
| 京都 | 07:21 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
京都平安京「東寺」と対となる「西寺」跡を探す

東寺と並び称される大寺院であった「西寺」

今は、石碑のみでその面影は、ない。


saiji
 

西寺(さいじ)

平安遷都のおり、平安京鎮護のために造営された東西二寺の一つ。

朱雀(すざく)大路を挟んで東寺(教王護国寺)と相対し、

右京九条一坊三保(京都市南区唐橋(からはし)西寺町)にあった。

東寺を左大寺(さだいじ)、西寺を右大寺(うだいじ)とも称した。

796年(延暦15)に藤原伊勢人(いせんど)が東西両寺の造寺長官に任命されている。

 

823年(弘仁14)東寺は空海に託され真言密教の中心道場なったのに対し、
西寺には守敏僧都(しゅびんそうず)が入り、官寺として発展した。


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とくに860年(貞観2)に文徳(もんとく)天皇の国忌が行われるなど、鎮護国家の寺

として栄えた。

しかし990年(正暦1)火災により焼失、荒廃

現在は旧跡を残すのみである。

京都市立唐橋小学校の敷地や講堂跡の都市公園唐橋西寺公園になっていた。
記録をみるとまさに「東寺」と対称形の大寺院であったことが判る。

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| 京都 | 07:02 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
東寺を出て西側にあった「羅城門」を探す

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「羅城門
平安京に南面する正式の玄関となる門。

中世以降は「羅生門」と書かれることが多い。芥川龍之介の小説や

黒澤明監督の「羅生門」で有名である。

しかし、今では碑が残るのみである・・・・

平安京は、隋・長安城に倣うものであるが、羅城(都市を囲む城壁)は

羅城門の左右に少しあるだけで、連なってはいなかった。これでは城壁にならないが、

中国から伝わった風水に基づく四神相応の考え方を元に行われたという。


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「羅城門」を入ると北に真直ぐ道幅 84メートルもの「朱雀大路」が貫いていた。

まさに滑走路のような大路であった。

そして、左右に「東寺」と「西寺」が配置されていた。

 

京内は東西南北に走る大路・小路によって40(約120m)四方の「町」に

分けられ、東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、

南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町には

それぞれ番号が付けられていた。

これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。

 

道幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上あった。

現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっている。

朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅があった。

また、堀川小路と西堀川小路では中央に堀川、西堀川)が流れていた


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実を言うと、「羅城門」が見つけられなく、「西寺」(さいじ)の跡まで行ってしまった。

それほど何もなくなっている。

西寺からもどり小さな公園内に石碑を見つけた。

「羅城門跡」の石碑が目立たなくあった。

この門の規模は、平安神宮をイメージしていただければわかると思います。

 
| 京都 | 07:44 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
さらに講堂内にある二十一尊の立体曼茶羅の迫力は圧倒的だった
koudou 


東寺の創建時にはなかった
「講堂」は、天長2年(825年)弘法大師空海によって

着工され、承和2年(835年)完成しました。


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立体曼荼羅(密厳浄土の世界)
曼茶羅三次元化。

講堂内の白亜の壇上には、大日如来を中心とした五智如来をはじめ、五菩薩

五大明王、四天王、梵天、帝釈天の 二十一尊の仏像が安置されています。

これは、弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅です。

taisidou

続いて弘法大師空海の住まいであった「大師堂」御影堂から

平安時代からの経典を揃えた「宝物館」、宮本武蔵が鷲を描いた「観智院」など

全ての建物の中には、見逃せない歴史的宝物が必ずありました。

「東寺」だけでも京都の文化が集約されていて、まだまだ書きたいことがありますが

次のスケジュールに進みます。

| 京都 | 07:58 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
次に本堂にあたる「金堂」(こんどう)である
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「金堂」は、東寺一山の本堂で、延暦15年(796年)創建されたと伝えられています。

文明18年(1486年)に焼失し、今の堂は豊臣秀頼が再興させたもので

慶長8年(1603年)に竣工しました。桃山時代の代表的建物です。


金堂の「薬師如来坐像」は、両脇に控える日光菩薩・月光菩薩とともに重要文化財。

高さ3mもの大きさと黄金に輝く姿、また注目したいのは如来像の足下に
十二神将と呼ばれる12名の守護者が、下から如来を支えているのです。


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高い天井に黄金に輝く3mもの如来と菩薩のお姿が圧巻だ。

| 京都 | 07:57 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
「東寺」は、弘法大師空海が開いた真言密教寺院である

桓武天皇が796年「東寺」の建築を命じたが、実際の伽藍造営は順調ではなかった。

弘仁14年(823年)桓武天皇を引き継いだ嵯峨天皇が、空海に東寺を永く給う勅命

くだし、これより、東寺は、空海により真言密教の大本山として頭角を現していく。

弘法大師空海は、桓武天皇からではなく3代あとの嵯峨天皇から勅賜されたのです。


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正式名は「教王護国寺」。平安京鎮護の寺として建立された。

その後伽藍は幾度も焼失したが、「東寺」の北に直線に並ぶ伽藍配置・規模は

平安時代のままの姿を留めている。

京都第一の高さ 55mの「五重塔」、四度の焼亡をへて、その都度再建され、現在は

五代目の塔にあたる。徳川家光が寛永21年 1644年に建てた塔である。

この時期のみ内部が特別拝観できた。

 

内部の構造が見ることができたのは、大変貴重な体験だった。


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内部は心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥壇(しゅみだん)上に

阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の金剛界四仏と

八大菩薩が安置されていた。


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         (壁面の空海はこの絵ではありません)
 

また、周囲の壁には、空海をはじめとする真言八祖像が描かれていた。

この八祖像は、如来を見ているので後ろのあるため、気づかない方も多いが

密教の創始者から空海までの八祖が描かれた貴重なものだ。

空海に灌頂を授けた恵果と空海の姿もここに描かれていた。

 
| 京都 | 07:49 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |
今回「平安京」を探す旅では、レンタサイクルを活用しました

幅 87mあった朱雀大路は、今や車1台が一方通行の道になっている。

こんな状態では、自転車が最もいい交通手段だと考えた。

京都駅の近くでのサイクルショップをインターネットで探し1日借りた。

このショップは、リーガロイヤルホテルのすぐ傍にあった。


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                   道の先が、急に狭くなり一方通行
レンタサイクル風音(ふうね)

京都市下京区御方紺屋町5番堀川塩小路交差点西側

TEL:075-371-7800

 

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借りたのは、クロスバイク 1日1000円なのだが、電動以外セールで 800円だった。

9時にかり6時に返却したが、とても便利であった。

 

今回は平安京を辿ったのだが、スタートが京都駅の南「東寺」で、北の先端は

船岡山まで走ったのである。(京都南から北の端まで往復)

途中、内裏の遺跡碑を探すわけで、民家の中に、幾つか残されている。

これは、自動車では絶対に無理で、さらに歩くには距離がありすぎる。

黄色のクロスバイクは新しくギアの調子も良かったので余裕で走れた。

自転車はおすすめです。(体力の無い方は足がつりますのでご注意)

 
| 京都 | 13:13 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
今回の京都、スタートは「東寺」から
 

生まれ故郷でもあり、何十回も訪れている京都であるが

今までに「東寺」に参ったことがなかった。

これは、手抜かりであったことを今になってようやく認識した。


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桓武天皇の御宇「平安京」に遷都が行われたのは、延暦13年(794年)であった。

そして、「同15年、大納言伊勢人(いせんど)を以って、造寺長官と為し、

東西両寺を建つ。」と東宝記が伝えているように

東寺は、延暦15年(796年)に藤原伊勢人を造寺長官として建築された京都で最初の

寺院であった。


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「東寺」は、京都千二百年の姿をそのまま伝える唯一のお寺である。

建設当時の「平安京」は、都の正門というべき羅城門を挟んで東と西に

巨大な国家鎮守の寺院を建てようと桓武天皇が計画されたのである。

 

現在では、羅城門と西寺(さいじ)は、消失してしまい、碑しか残っていない。

しかし東寺は平安京造営とともに誕生し、往古の伽藍配置を保持しながら平安京、

そして京都の歴史のすべてを生き抜いてきた稀有の寺院であり、その不動の

地位は平安京条坊制の生き証人でもあるのです。

「平安京」を訪ねるコースとして始まりはやはり「東寺」からがふさわしいと思いました。

 

現在多くのおおきなお寺がある京都ですが、平安京の時代に寺院は、

「東寺」と「西寺」の二つしかなかったのです。

それは、平城京では、寺院の力が強く、政治にまで介入してきていて桓武天皇としては

新しい都で、政治を司る決心をされたのでした。

| 京都 | 07:57 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
京都の西を護る「白虎」とは、邪気を追い払う役目

白虎
白虎は、白い虎で邪気を追い出す役割がある。

西の守護神で、人や物が往来する大きな道が白虎とされ、山陰道がそれにあたる。

また、西山や嵐山、愛宕山あるいは桂川を指す場合もある。

 
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以上のように、東西南北にはそれぞれ

「北:玄武」「南:朱雀」「東:青龍」「西:白虎」の守り神がおり、

各方角には、四神にふさわしい地形が位置しないと、気の流れが

澱んでしまうと考えられていました。

京都盆地の場合は、東西南北にそれぞれ山があり、川や池など他の自然要素も

風水の示す方角に適っているため、まさに風水理念にかなった条件を持つ

「四神相応」の地だったのです。

 

考えるに、「朱雀」南の方角にあった巨大な湖「巨椋池」を埋め立ててしまったことは

風水上どうだったのだろうか・・・・心配な面もあります。

ただし埋め立てたのが、1941年に終了して、もう70年も経っていますから

大丈夫だとおもいますが。

 
| 京都 | 07:38 | comments(3) | trackbacks(0) | pookmark |

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