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ご冥福をお祈りする意味をこめて、再度加筆して原節子さんの出演映画を
追ってみようと思います。
まず、私が原節子さんをなんとなく身近に感じたのは、原節子さんが私の住む
狛江市岩戸北の住人であったということです。
もちろん、お会いしたことはありませんが、まさにお隣さんだったことで
改めて、何作品かDVDで観てみようと思い立ったのが始まりでした
1994年まで原節子さんは、狛江の土地を所有していました。
ご本人は、1964年秋に、狛江の自宅を引き払い、鎌倉浄明寺の姉夫婦のもとへ
引っ越されています。
1963年に42歳で突然、映画界から引退した翌年のことでした。
1994年以降、この土地は電力中央研究所社宅になっていたとのことだと聞いています。
我が家の横が、まさに電研社宅だったのです。
ある本に
「原節子は、保土ヶ谷を離れ、北多摩郡狛江村岩戸1278、小田急の
喜多見駅から10分のところに、芝生と池と石灯籠のある庭の瀟洒な和風の家に
1948年の初春に移っている。」と書かれていた。
たぶん、和風建築で広い庭をもつ素敵な家だったと推察される。
現在の東京都狛江市は、北多摩郡狛江村だったのですね。
そういえば最近まで近くの旧家の表札に、北多摩郡の地名が書かれていました。
何故か私は9月に「紀子三部作」が気になって、「東京物語」と
「晩春」の2作品をDVDで見直していた。
以前から、私が住んでいる狛江市に原節子さんが住んでいたこともあり、
ほとんどの作品はDVDで観ている。
魅力的な女優さんで、狛江の後に住んだ鎌倉のお兄さんの家にも訪ねたこともある。
昭和の大スター、元女優の原節子(はら・せつこ、本名・会田昌江=
あいだ・まさえ)さんが9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去した
ことが11月25日分かった。
95歳。横浜市出身。
1963年(昭38)の映画出演を最後に表舞台には出ず、その後の生活は
ほとんど知られていなかった。
原さんは1920年(大9)6月17日生まれ。実家の生活苦のため、
女学校を中退し、35年(昭10)に日活多摩川撮影所に入社。
同年の映画「ためらふ勿れ若人よ」でデビュー。
役名「節子」をそのまま芸名にし「原節子」となったという。
日本とドイツが急接近しつつあった37年、ドイツのアーノルド・ファンク監督
による初の日独合作映画「新しき土」のヒロインに抜てきされると、
日本人離れした容姿は国内だけでなく外国でも話題となり、一気にスターとなった。
その後東宝へ移籍。戦時中は「ハワイ・マレー沖海戦」、「決戦の大空へ」、
「勝利の日まで」など戦意高揚映画に数多く出演した。
戦後も化粧品会社のカラーポスターで暗い世相を明るくすると、黒澤明監督の
戦後初の作品「わが青春に悔なし」に出演。
47年には東宝を離れフリーとなる。「安城家の舞踏会」「青い山脈」
「お嬢さん乾杯」など戦後を代表する作品に出たが、
49年に初めて小津安二郎監督と組んだ「晩春」に出演。
61年の「小早川家の秋」まで小津作品に計6本出演した。
「永遠の処女」など、さまざまなキャッチフレーズが付けられたが、何度か
体調不良が伝えられ、そのたびに引退がささやかれたが、
62年の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」が最後の映画出演となった。
63年に小津監督が亡くなり、その通夜に出席したのを最後に表舞台から
遠ざかった。神奈川・鎌倉で妹夫婦と生活しているとされ、写真週刊誌などが
何度も“スクープ”を狙ったが、50年以上その姿をとらえたものはなかった
赤坂で久しぶりに「チンドン屋」さんを見た。
サックスと太鼓にビラ配り
侍姿の男性と着物姿の女性の3人だったが、なかなか存在感があった。
本日11月11日オープンする鍋料理「鍋ごころ」の宣伝である。
3人ともアットホームな感じで、昔のチンドン屋のように
音だけ派手で愛想のないということはなく楽しめる。
たまには、いいものである。
天気が良いと自転車で走るコースの武蔵野公園
普段静かな公園で、元気な音楽が流れていた。
2曲目に友人の故西岡恭三君の「プクプク」が歌われていた。
覗きにいくと多くの人が、くじら山の周りに集っていた。
このイベントは「第27回武蔵野はらっぱ祭り」なのだそうだ。
お知らせ
東京都小金井市にある都立武蔵野公園の中の通称「くじら山」地区で20年前から
市民有志によって行われ続けている「武蔵野はらっぱ祭り」。
【会場】
都立武蔵野公園 くじら山下原っぱ
【催し物】
子ども広場(遊び場)・リサイクルバザー・風の原市場(模擬店)・はらっぱ音楽会・
市民文化活動ブース・映像・パフォーマンス・絵画・写真など
27年も続けられている楽しいイベントなのだ。