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毎年この時期には、クリスマス・イルミネーションが美しい赤坂プリンスホテルであったが
今年その姿は見られない。
このグランドプリンスホテル赤坂の再開発を進める西武プロパティーズは
今月、総事業費を約980億円とする「紀尾井町計画(仮)」を発表。
同事業は、オフィス、ホテル、商業施設からなる「オフィス・ホテル棟」と
賃貸住宅として提供する「住宅棟」 の2棟を建設するもので、
それぞれに環境や防災に配慮した高機能の最先端設備を導入する。
オフィス・ホテル棟の高さは約180メートル、階数は地上36階地下2階。
30階から36階はホテルとなり、室数は250室程度。
レストランやフィットネスジム、プールなども設け、プリンスホテルが運営する。
住宅棟は高さ約90メートルで、階数は地上24階。約130戸を予定し、
フロントコンシェルジュ、ラウンジ、パーティールームなどを備える。
2013年1月以降に着工し、開業は2016年夏を予定している。
また、赤坂見附駅上にあった「ベルビー赤坂」(3月末に閉店)には
「ビックカメラ」が出店する。
地下1階〜地上9階まで営業フロアを展開し、売り場面積は約6000平方メートル
赤坂への出店に関し、同社は「最近では外資系企業やIT企業などが多く集まり、
都心の新しいビジネス街として発展している。
赤坂見附駅も5つの路線(銀座線・丸ノ内線・有楽町線・半蔵門線・南北線)に
アクセスできる非常に利便性の高い駅となっている」とコメント。
都市型の駅前大型店として、年商200億円超を見込む。
オープンは2013年夏の予定。
国民栄誉賞を受けた三重県津市出身の吉田沙保里さんが野田佳彦首相から
贈られた記念品の金の真珠が元で、ゴールドパールの需要に期待して
伊勢志摩の真珠業界がにわかに湧き上がっている。
11月7日に首相官邸で行われた表彰式で、13連覇にちなんだ
直径13ミリの金色の南洋真珠のペンダントが吉田さんに贈られた。
によるもの。オーストラリアやインドネシア近海で育つ南洋真珠といわれる
シロチョウガイ(白蝶貝)から作られた真珠を使い、オリンピックの聖火から
イメージした炎をモチーフとしてイエローゴールド、ピンクゴールドの2色の
ゴールドと、プラチナ、ダイヤモンドでデザインした。
真珠関係者は、「ゴールドパールの人気に火が付き、真珠が再認識されれば」と
期待を込める。一方「南洋真珠よりも純国産の『和珠(わだま)』をプレゼント
してくれたら良かったのに…」と国内需要喚起を願う声も。
品薄のゴールドパールに、需要を見込んだ取り引きが水面下で行われ、
少女時代
NHK紅白歌合戦がK-POPからの出場ゼロになったことについて、
韓国メディアから反発の声が出ている。
今年も日本での活躍が目立ったのになぜなのか、というのだ。
NHKの放送総局長が「政治と文化は違う」と2012年10月24日の会見で
明かしたとき、韓国メディアから前年の3組を上回る出場への期待の声すら出た。
ところが、フタを開けてみると、紅白への出場組はゼロとなった。
NHKは、竹島を巡る騒ぎなど政治の影響はなく、様々な調査の数値が下がったため
と説明したが、韓国の3大紙は、この説明に一斉に異を唱えている。
中央日報は、「本当に独島問題と関連しないだろうか」と疑問視し、
K-POP歌手が紅白から排除されたと主張した。
その理由として、2011年に出場したK-POP3組が2012年はそれ以上に
活躍したことを上げた。東方神起は、日本ツアーで55万人を動員し、
13年には5大ドームツアーを控えていること。
KARA、少女時代も、10万枚以上アルバムを売り上げて日本レコード協会から
ゴールドディスクを獲得したことから、「以前に比べて、日本での人気が
急落したことがない」した。そのうえで、NHKの説明には説得力がないと言っている。
昨年の紅白出場者
<紅組>
芦田愛菜/KARA/神田沙也加/椎名林檎/少女時代
aiko /絢香/アンジェラアキ/いきものがかり/石川さゆり
AKB48 /川中美幸/倖田來未/伍代夏子/小林幸子
坂本冬美/天童よしみ/夏川りみ/西野カナ/ Perfume
浜崎あゆみ/平原綾香/藤あや子/松田聖子/松任谷由実
水樹奈々/水森かおり/和田アキ子
<白組>
猪苗代湖ズ/鈴木福
秋川雅史/嵐/五木ひろし/EXILE/NYC/北島三郎
郷ひろみ/SMAP/千昌夫/東方神起/TOKIO/徳永英明
AAA/長渕剛/西田敏行/氷川きよし/平井堅
FUNKY MONKEY BABYS/福山雅治/flunmpool/細川たかし
ポルノグラフィティ/森進一/ゆず/L’Arc en Ciel
今年の年末出場者
<紅組>
aiko/絢香/いきものがかり/石川さゆり
AKB48/SKE48/きゃりーぱみゅぱみゅ/香西かおり
倖田來未/伍代夏子/坂本冬実/天童よしみ/中島美嘉
西野カナ/Perfume/浜崎あゆみ/藤あや子/プリンセスプリンセス
水樹奈々/水森かおり/ももいろクローバーZ/YUI/YUKI/
由紀さおり/和田アキ子
<白組>
嵐/五木ひろし/HY/ EXILE/ NYC
関ジャニ∞/北島三郎/郷ひろみ/ゴールデンボンバー
コブクロ/斎藤和義/三代目 J Soul Brothers
SMAP/舘ひろし/TOKIO/AAA/ナオト・インティライミ
氷川きよし/FUNKY MONKEY BABYS/福山雅治/細川たかし
ポルノグラフィティ/美輪明宏
森進一
昨年の出場者と比較してみると
赤文字は、今年末には出場しない歌手であるが、不思議な気がする。
日本人でも徳永英明やゆずが出ないで細川たかしやHYなどが出る?
出演者にカタカナ、横文字が多すぎる(特に白組)。
また、韓国のグループの活動は見事で、歌、ダンスともに素晴らしい!
彼らが何故選ばれないのか、まったく理解できない。
音楽に政治をからめては、いけないと思う!!
「東大寺」の正式名は「金光明四天王護国之寺」です。
聖武天皇の皇太子 基王の菩提を追福するため、若草山の麓に造営された
「金鐘山寺(きんしょうせんじ)(金鐘寺)」が、国分寺建立の詔により国分寺の
総本山「金光明寺」となりました。
金光明寺の呼称が東大寺に変わるのは大仏開眼の少し前とのことです。
東大寺とは「平城京」の東方に位置するからです。
また、古代の「大寺」とは天皇のお寺と言う意味です。
奈良の大仏ですが最初、聖武天皇は近江の国(現在の滋賀県)の紫香楽宮
で大仏造営の詔を出されました。
そこで、大仏造営の工事は紫香楽の「甲賀寺」で開始されましたが、
都が平城京に戻るのに合わせて甲賀寺での大仏造営を中止して聖武天皇と
皇后のゆかりの金鐘山寺(東大寺)の寺域内で大仏造営の工事が再開されることに
なりました。
近江京が実現していたら大仏は、近江の大仏となっていたかもしれませんね。
現存の大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。一見2階建てに見えるが、構造的には
一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の
裳階を回している(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。
高さ46.8メートル、間口57メートル、奥行50.5メートルで、高さと奥行は
創建時とほぼ変わりないが、東西の幅は約3分の2に縮小されている。
大仏の左右には脇侍として木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像を安置。
堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像を安置する。
いずれも江戸時代復興期の像である。
雨の奈良である
国宝や重要文化財を多数所蔵する奈良の東大寺が、一般公開できる展覧施設
「東大寺ミュージアム」を昨年10月にオープン。
これまでは国立博物館などの特別展などでしかお目にかかれなかったすばらしい
仏像や絵画等がいつでも見られるようになった。
ミュージアムは
南大門をくぐった左側に出来ている。
まずは、古代の誕生仏では日本最大として知られる金色の誕生釈迦仏立像
(国宝、写真左)が正面でお出迎え。
続いて現在修復中の法華堂からお引っ越しされてきた本尊・
国宝不空羂索(ふくうけんさく)観音像と、日光、月光(がっこう)両菩薩像の
3体がそろい踏み。
いずれも国宝である。これまでの展覧会のように、美術品として仏像を展示するのではなく、
お堂で仏様と向き合うような空間にしたいという東大寺の意向で、
織り上げの格天井や朱塗りの柱など、法華堂の内陣を模して作られた展示室は、
まさに堂内の雰囲気そのもの。間口は実際の須弥壇と同じ幅なのだそうである。
じっくりと国宝仏に対峙できる空間に浸って。東大寺ミュージアムのメイン展示です。
この3体が揃うのは、法華堂の修理が終わる2013年1月まででということ、今回は
貴重なひと時であった。
六道珍皇寺が建つ辺りはその昔 、阿弥陀ヶ峰山麓一帯(清水から今熊野辺りの
東山山麓)の鳥辺野(とりべの)呼ばれた東の葬送地へ続く道に面して建っていた
ことから”六道寺”とも呼ばれていた。
六道とは、仏家のいう地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界をいい、
死後、霊は必ずそのどこかに行くといわれる。
六道の辻は、その分岐点で冥土への入口といわれている。
閻魔王宮の役人で第二の冥官だったと伝説をもつ小野篁(おのたかむら)が
冥府へ通う井戸(入口)が寺に在ったためとされる。
小野篁はあの世とこの世とを行き来するのに、井戸を使った
といわれている。江戸時代の蘭田耕筆なる随筆には
【小野篁は閤王の化身にして、常に冥府に往来し給ふといひて、
五候(今の松原通なり)の来に死の六道、上嵯峨に生の六道といふは、
出入の穴有し所なりと博ふ】とある。死の六道とは六道の辻のあたりを指し、
六道珍皇寺の井戸を使って、たかむらは冥界に入った。
境内の閻魔堂には、閻魔大王と篁の木像が並んでいる。
小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の末裔で、父は小野岑守。
孫に三蹟の一人小野道風がいる。
また謎多い美貌の歌人小野小町も一族である。
青年時代、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて
発奮し学業に励んだとされる。弘仁13年(822年)文章生に補せられ、
大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下に叙せられた。
承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に
正使藤原常嗣の専断に憤慨しいさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否する。
さらに、「西道謡」という朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、
官位剥奪の上、隠岐への配流に処された。
のち承和7年(840年)2月許されて平安京に帰り・本位に復った。
その後も蔵人頭・左中弁と要職を歴任。陸奥国司時代の承和9年(842年)には、
竹駒神社を創建した。承和14年(847年)には参議として公卿に列した。
仁寿2年12月(853年1月)従三位に叙せられる。
死罪に等しい隠岐への流罪だったが、たった1年半で現職復帰したことも当時
魔力を使ったと思われた。
六道珍皇寺には、小野篁(おののたかむら)が冥界へ通ったという井戸がある。
篁はこの井戸から毎晩、閻魔の庁へ出かけ、裁判を手伝っていたと言われている。
そして、嵯峨の清涼寺横の薬師寺境内の井戸(生の六道)から、この世に戻って
来ていたという。
六道珍皇寺、今は祇園にも近い賑やかな場所なのだが
かつて鳥辺野の葬場の入口にあり、小野篁が冥土通いをしたところで
「六道の辻」と称される。
お盆には、祖先の霊を迎えに参拝する六道まいりが行われる
泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある
真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。
本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。
天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、
後に仙遊寺と改名された。
実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の
月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。
東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、
鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に
至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として
「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。
その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。
この泉は今も枯れることなく涌き続けている。
東福寺から近いのかと思ったので徒歩で向かった。山門まではそうかからなかった。
しかし、山門から参道がおそろしく長い、加えて登り坂だった。
大寺院であることが、この参道で理解できた。
泉涌寺概略
東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺。
皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、
幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。
総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、
奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、
光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする
霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。
仏殿
当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ
以降建立のものである。
大門から参道を下って正面の仏殿は、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱に
よって再建され、現在伽藍の多くはこの時整備されている。
仏殿は一重もこし付入母屋造り本瓦葺き、唐様建築の代表作で、
国の重要文化財である。
楊貴妃観音堂
大門を入って左手奥の堂内、六羅漢像の中央に安置される聖観音像(重文)で
湛海律師が寛喜2年(1230)月蓋長者像などとともに将来された像である。
像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との
伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来た。
すべてを観たいのであるが、実を言うとホテルチェックアウト時間の11時までに
東福寺周辺のお寺、神社を巡り、ホテルに戻り精算して東京へ帰る予定なのだ。
とにかく、東福寺一画だけでも1日過ごせる寺院仏閣があるのに改めておどろかされた。
京都 奥が深い・・・・
清水寺
清水の舞台で知られる。宝亀9年(778)延鎮上人が音羽の滝の上に庵を結び、
千手観音を祭ったのが始まりで、坂上田村麻呂が延暦17年(798)に長岡京の
旧紫宸殿を移築して堂宇を建造したと伝える。
断崖に立つ舞台造の本堂(国宝)は徳川家光が寛永10年(1633)に再建したもので、
優美な寝殿造が踏襲されている。
139本の柱が支える舞台からは京都市街を一望できる。
三重塔(重要文化財)も同時期の再建。この時期はカエデが見事に色づき、紅葉を
堪能することができる。
今年の京都、紅葉が実にきれいであった。
下村彦右衛門は「福助」のモデルとしても有名。中国から輸入した綿糸を販売し、
巨万の富を築いた彦右衛門は、お礼として、瀧尾神社境内にて食事を振る舞った。
次第に人々は彦右衛門を「福の神のような人」と呼び始め、「福助」の愛称が定着した。
そこで、伏見稲荷の人形師が、彦右衛門をモデルにした伏見人形を作ったところ、
大人気となり「福助」の名前が全国に広がった。
瀧尾神社では、鳥居前の人形師「欽古堂」に製造型を依頼して、
当時の「福助人形」を復刻。授与品として参拝者にお分けしている。
大文字屋
大丸の歴史は、1717年(享保2年)、京都伏見の古着商の家に生まれた
下村彦右衛門正啓が、伏見に呉服店「大文字屋」を開いたことに始まる。
この時、正啓は、店のしるしとして○に大の文字が入った商標を採用した。
○は天下を表し、大は人と一を組み合わせたものとして、このしるしは天下一の商人
になろうという心意気を示したものであると大丸では伝えられている。
「大文字屋」の人気は上々で、9年後の1726年(享保11年)には
大阪の心斎橋に2号店を出店、続いてその2年後、1728年には名古屋に出店した。