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安住淳財務相は本日10月31日午前、
ドル買い/円売りの市場介入を実施したことを
明らかにした。
介入は単独介入。午前10時25分から行ったという。
安住財務相は「実体経済を反映しない一方的・投機的な動きが続いている」
としたうえで、「納得いくまで介入する」と語った。
為替市場では介入を受けてドルが79円前半まで上昇、
野田岩で満足し、増上寺に立ち寄ることにした。
東京タワー下を抜けていくと、そこに「とうふやうかい」がある。
うかい鳥山の系列で、お昼なら5600円ほどで食べれるのだそうだ。
ここを抜けて、裏門から増上寺へ
正式には三緑山広度院増上寺、上野の寛永寺と並ぶ徳川家の菩提寺。
増上寺
安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、
徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。
家康公がときの住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、
と伝えられています。
慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、
家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。
三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、
朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の
勅許もありました。
家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、
75歳で歿しました。
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、
私が二十数年毎日通った9階建ての本社ビルは、こんな建物に変わっていた。
明日から江戸城内で撮影してきた写真をご紹介していきますが
今日は箸休みで、前によく通った東麻布「野田岩」のうなぎを
神谷町に用があり、ついでに「野田岩」のうなぎを食べたくなった。
実は、私の勤務先本社が野田岩の4軒ほど先にあったのだ。
9階建ての自社ビルだった。
近いせいもあり、お客様と意外とよく行った。
今の店に立て直す前から通っているので結構古い客になるかもしれない。
「五代目野田岩」十一代将軍徳川家斉の頃創業だから、約200年だそうだ。
12時になる前だったので、予約していないが入れた。
早速お重をお願いした。
先週大阪出張で関西風うなぎを食べていたので、江戸前うなぎの真髄
野田岩の柔らかくふっくらした天然うなぎに感動ものでした。
蔵造りのお店の暖簾をくぐった先には、外の喧騒がまるで夢の如く感じる
静かで落ち着いた空間が広がり、着物をぴちっと着こなした仲居さんが
丁寧に対応してくれる。
伝統を守るとは味だけでなく、空間とそこに広がる時間をも守り続けていく
店から出ると目の前に東京タワーが・・・
まず、内郭、内部はさらに本城と西城に分けられる。
本城の部分は本丸、二の丸、三の丸からなり、この部分の面積はおよそ
31万平方メートルであった。
文字どおり江戸城の中心で、本丸には本丸御殿が建てられており、
表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)の三つの部分からなり、
表殿舎は幕府の政治上の中枢部で、老中らが政務を行う御用部屋や、
諸大名、外国使節らの謁見(えっけん)などが行われる大広間や、
白書院、黒書院などの座敷があった。
中奥は将軍が日常起居し政務をみたりする「官邸」であり、
大奥は将軍の夫人(御台所(みだいどころ))を中心に後宮の女性が生活する
場所で、いわば「私邸」であった。
この本丸北側に1607年(慶長12)完成の五層六重の天守閣が建てられていたが、
1657年(明暦3)の明暦(めいれき)の大火で類焼し、以後は再建されることなく、
城内の富士見櫓(やぐら)(3層)によって代用された。
火事の後は、石垣だけが残っている
二の丸は本丸南側および東側に南北に細長い形をしており、
三の丸はさらにその東側に位置し、江戸期の城の遺構がいちばんよく残る
部分である。
すなわち、大手門(渡櫓は復原)、平河門(ひらかわもん)、桔梗門(ききょうもん)などがある。
西城(西の丸、山里曲輪(くるわ))の西の丸は前将軍の隠居所、
次将軍の居所として用いられた所で、ここに伏見櫓がある。
明治維新後、明治天皇が入ったのは西の丸で、1873年(明治6)に
西の丸御殿(皇居)が炎上したあと、同じ場所に明治新宮殿が1888年に
建てられている。
家康、秀忠、家光 三代の将軍が江戸城を拡張していったのだ。
まず入城した徳川家康によって大改修が施された。
家康は、道灌時代の子城、中城、外城に分かれていた曲輪(くるわ)を一つに
まとめてこれを本丸とし、山下に二の丸、三の丸を設け、
さらに1592年(文禄1)豊臣秀吉が伏見に隠居城を築いたのに便乗して、
隠居城として西の丸を設けた。
関ヶ原の戦いを経て1603年(慶長8)に家康が征夷大将軍になるに及んで、
江戸城は単なる大名の居城ではなく、政治、経済上の中心としての位置づけが
加わり、江戸城の整備が要請されたのである。
以後、各地の大名を動員しての天下普請が行われ、家康の代では終わらず、
2代秀忠(ひでただ)、3代家光(いえみつ)に引き継がれ、
結局、1606年(慶長11)から1636年(寛永13)まで大工事が7回も行われた。
最終的には6代将軍家宣(いえのぶ)のとき、1710年(宝永7)芝口門(しばぐちもん)が
できて、東西約5キロメートル、南北3.9キロメートルに及ぶ日本最大の城が
できあがったのだ。
近い「喜多見氷川神社」であった。
さらに今年8月に、このブログで紹介した、「深大寺城跡」の城主が扇谷上杉氏だった。
扇谷と書いて「おおぎがやつ」と読むのであるが、この扇谷上杉持朝の
家宰(家老)であったのが太田道灌だったのだ。
太田道灌(おおた どうかん)とは、
室町時代の武将。武蔵守護代、扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを
汲む太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、
家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。
江戸城を築城した武将として有名である。
そうなんです、太田道灌は、大きな戦を30度戦い
すべて打ち勝っている強い武将なのでした。
江戸城を造ったのが太田道灌とのイメージで土木に優れた学者だと思っていたら
大違いでした。
柔道の柔ちゃんこと、谷亮子衆議院に並ぶオリンピック5大会連続出場を決めたのは
35歳の杉谷泰造(杉谷乗馬クラブ)選手。
日本選手では史上最多に並ぶ夏季五輪5大会連続代表に決まった。
馬術競技は、なかなか一般的ではないためか、あまりニュースの乗ってこないが
杉谷泰造選手は、世界でもトップランクの凄いアスリートである。
杉谷泰造(すぎたにたいぞう)
プロフィール
生年月日 :1976年6月27日
出 身 :大阪府
所 属 :杉谷乗馬クラブ
元五輪選手だった父親の影響で6歳から馬術競技を始める。
17歳からオランダに拠点を移すと、20歳でアトランタ五輪に出場。
その後も、2000年シドニー五輪、2004年アテネ五輪、2008年北京五輪と
4大会連続で五輪出場を果たした。
アテネ五輪では、日本人選手として戦後最高の個人16位に食い込む快挙。
2011年7月2012年ロンドン五輪出場を決め、5大会連続代表となる。
北杜夫(きた・もりお、本名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)氏が、
10月24日、84歳で逝去された。
ご冥福をお祈りいたします。
大学に行っていた遠い昔、夏休みの帰省の際、新幹線内で読んだのが
北杜夫氏の「怪盗ジバゴ」と五木寛之氏の「さらばモスクワ愚連隊」だった。
怪盗ジバゴでクスクス笑いながら、さらばモスクワ愚連隊でヨーロッパへの
あこがれを抱いた。
何故かこの2冊のことを鮮明に覚えている。
後に、北杜夫氏と五木寛之氏の著書は、ほとんど読んだ。
その影響で大学4年の時、1ヶ月間ヨーロッパを旅することにもなった。
いい経験だった。
北杜夫
近代短歌を代表する斎藤茂吉の次男として東京に生まれ、旧制松本高を経て
東北大医学部に進学。卒業後の1954年、初の長編「幽霊」を自費出版した。
60年には、水産庁の調査船に船医として半年間乗った体験をユーモアを交えて
描いた「どくとるマンボウ航海記」を発表。「昆虫記」「青春記」などマンボウものを
出版して人気を博した。
同年、ナチスと精神病の問題を扱った「夜と霧の隅で」で芥川賞。
64年には斎藤家三代の歴史を描いた「楡家の人びと」を刊行、
毎日出版文化賞を受けた。
純文学作品の一方で、「怪盗ジバコ」「さびしい王様」などのユーモア小説や
「船乗りクプクプの冒険」などの児童文学作品も発表し、若い世代を中心に人気を集めた。
一昨日、大阪・和泉府中市にある「杉谷乗馬クラブ」において
「大阪グランプリ第37回ファイナル大会」が開催された。
開催された乗馬クラブは、世界馬術のトップライダー杉谷泰造選手のご実家ある。
大会は、日本の障害飛越の公式戦。
この試合のためヨーロッパから、杉谷泰造選手もかけつけた。
10月21日(金)、22日(土)、23日(日)の3日間にわたる15競技。
最終15競技目が「ウオルサム杯」であった。
日本各地から集合した世界レベルの選手による障害飛越
人馬一体となった、流れるようなフォルム
美しい!!!
杉谷泰造選手ともお話できたが、さすが世界一流ライダー
泰造さんは、この日夜に関空からヨーロッパにもどるのだそうだ。
3日間試合も出場してお疲れだろうが、さすが強い。
今回はご自分の愛馬は、ドイツに残しており、
クラブメンバーの馬での出場なので、実力を発揮することは出来ないが
江戸城が築城されたのは、1457年でした。(徳川家康江戸城入りは1590年)
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の
家宰(家老)であった太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城した。
徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
江戸氏が治めていたころの模様。日比谷まで海であった。
道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や
万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。
それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や
水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。
その後太田道灌が主家・上杉定正に殺害され、江戸城は扇谷上杉氏の所有するところ
(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。
ついで1524年(大永4年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。
江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に
至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から利根川・
荒川を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために
重要な役割を果たしたと考えられている。
秀吉に後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府(静岡)から転居した
権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に
江戸に入城し、居城とした。旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われた。
徳川家康と太田道灌は、生きていた時代に150年もの差がある。
イメージでは、徳川家康が太田道灌に命じ江戸城を造らせた感じだが、
これは、まったく勘違いであった。
太田道灌が造り上げたベースを徳川家康、秀忠、家光の3代将軍が拡充
させていったのが、江戸城なのである。