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この鼻煙壷は、93年に中国江南の 古都「蘇州」で求めたもの。
時代は 光緒(1875年〜1908年)に造られたものである。
孫悟空ではないかもしれないが
自分では「孫悟空の鼻煙壷」と思っている。骨董の楽しみはそれでいいと思う。
(マイコレクションNo9)
スナッフボトルは”鼻煙壺”(嗅ぎ煙草入れ)と呼ばれ、ヨーロッパから中国に渡り、
清代末期に上流社会で大変人気になったものです。
現在、アンティークのものは代表的コレクターアイテムとして世界的に蒐集されています。
ベースとなる乳白色の半透明ガラスに気泡を含ませたガラスを使い、
その上に緑と濃い目の赤いガラス重ねてから削りだして作られた
スナッフボトル(鼻煙壷)です。
これは、中国の揚州に行ったときに買い求めた品です。
鑑真和上の故郷である揚州は、古い街で風格あるたたずまいが今も残っています。
ガラス細工の「鼻煙壷」
被せガラス技法で造られている。
種々の色のガラスから成る層を一つまたはそれ以上二重焼き付けするという技術を使用する。
はじめはその頃薬を入れるために使われていたガラスの小瓶を代用品として使っていました。
これが鼻煙壷の原型となりそれが、その後の清(1636〜1912)時代の極盛期を経て、
携帯用の容器から芸術性を競うものへと性格を変化させていきました。
(マイコレクションNo.8)
それを記念した日なのだそうです。
先日「おくりびと」(英語でデパーチャー)がアカデミー外国語映画賞を受賞した
滝田洋二郎監督作品に新撰組をえがいた「壬生義士伝(みぶぎしでん)」もあるが、
『鉄道員(ぽっぽや)』などの作品で知られる浅田次郎さんの小説だ。
主人公吉村貫一郎は、尊王譲位に邁進すると称して南部藩を脱藩、新撰組隊士となるが、
内実は生活苦によるもので、貫一郎の願いは少しでも多くのお金を、
故郷に残してきた妻しづと子どもたちのもとへ送り届けること。
しかし、貫一郎は、鳥羽伏見の戦いの中、皮肉にもかつての幼馴染で大阪屋敷の
差配である大野次郎右衛門の命で、切腹させられることになる。
その50年後、一人の新聞記者が貫一郎を知る人たちを訪ね、「壬生浪(みぶろ)」と
呼ばれた新撰組にあってただひとり「義」をつらぬいた知られざる貫一郎の姿を
浮き彫りにしていく。こんな話である
ところで、新撰組 当時隊員の1ヶ月の手当ては、局長50両、副長40両、助勤30両、
平隊士10両ほどでしたが、当時は1両2分あれば、親子5人が楽に暮らせたといいますから
けっこう高給とりだったのです。
また、新撰組局長、近藤勇の生家が東京の調布にあるそうなのだが、まだ行ってない。
私の住まい狛江から遠くないので季節がよくなったら、自転車で行ってみようと思っている。
1860(万延元)年、江戸幕府が派遣した使節団が、35日かけ咸臨丸で太平洋を横断
してサンフランシスコに到着した日です。勝海舟や福沢諭吉らが乗船していました。
(当時の記録では、旧暦の3月17日となっている)
勝海舟の自宅跡は、仕事先から歩いてすぐ近くであるし、福沢諭吉先生については、
「日本の大君」への贈答されたウオルサム
サンフランシスコからアメリカを横断し、万延元年(1860年)5月9日、
日米修好通商条約批准書交換のため、日本の遣米使節がニューヨークに到着した。
この使節は、新見豊前守を正使とし、アメリカ軍艦ポーハタン号と咸臨丸とで訪米した。
5月17日ホワイトハウスのブキャナン大統領を訪問。
この時、大統領は日本のエンペラーと主席大使に記念のプレゼントを贈呈した。
それがウオルサムの懐中時計だったのである。
注目すべきは、日本と米国が初めて本格的に出会ったという歴史的瞬間に、
ウオルサムの時計があったという事実だ。
ヨーロッパの歴史に残る時計は数多いが、日本の近代史はウオルサムから始まったと
いっても過言ではない。
そのせいか、ウオルサムの時計は鉄道作業局・鉄道庁の公式時計としてえらばれた
だけでなく、日清・日露戦争の功労者に皇室から下賜されたのも同社の金時計だった。
実際に外務省外交資料館に保存されているウオルサムの懐中時計を確認してくれと
依頼されケースを開けムーブメントをチェックする機会があり、手に取り動かしてみた。
150年前の時計であるのに、しっかり時を刻み、ウオルサムの優秀さを再認識させられた。
約150年ほど前に「日米修好通商条約」批准のため、ポーハタン号と咸臨丸が
太平洋を横切り、咸臨丸がサンフランシスコに到着したのが2月26日だったのです。
この日米修好通商条約は、鎖国から開国の道を開いただけでなく、日本にとって
多くの重要な意味を持っていました。
小栗上野介忠順による不平等通貨交換レート修正
小栗は、フィラデルフィアの造幣局にて日米間で正式な通貨の交換レートを定める
経済交渉を行いました。
というのは、総領事のハリスが、江戸において不確定のまま貨幣の交換レートを
日本に押しつけていました。
その結果、不合理な交換レートのため幕府は膨大な損失を被り、この損失は
アメリカだけでなく、イギリス・オランダ・ロシア・フランスなど各国に及んでいました。
小栗は、一枚の小判を出し、「通貨交換の中心となるべきものは、銀ではなく、
金の方が適切である」と主張しました。 次に、「ドル金貨と小判との交換に関して、
目方だけで行うのではなく、金の含有量によるべきである」と主張しました。
これに対しても、アメリカ側は当然な意見であると承諾しました。
そして、金貨と小判の金の含有量の測定に関する実験を行い、日本の小判の
方が、金貨に比べて金の含有量が多いことが判明しました。
金・銀が国際的交換レートで貿易ができるよう、この時に修正したのでした。
あまり取り上げられていないが、日本の財産を守るうえで非常に有益な行動で
あったと私は高く評価しています。
咸臨丸とポーハタン号で多くの日本人がアメリカで体験したことが、その後の
文明開化に多くの影響を与えたことは、まちがいない。
勝海舟は艦長でしたが、福沢諭吉も同行していたことは意外と知られていません。
諭吉は、アメリカでウエブスターの英語辞書を日本に初めて持ち込み、その後
私の母校でもある慶応義塾大学を開いて日本の経済財政界に多大な影響を与えて
いったのである。
そして、その時を記録するように米国製ウオルサムの懐中時計が、当時の大君
(将軍家茂)宛にアメリカブキャナン大統領から贈られ、今も外務省外交資料館に
保管されている。
この時計は、NHK大河ドラマ「篤姫」でご覧になった方も多いでしょう、
篤姫の夫であった将軍家茂は、若くして亡くなり、
使節をアメリカに送り出した井伊直弼大老も桜田門外で暗殺され、
時計の行き場所が無くなり資料館に保管されたのである。
この歴史の証言者1860年のウオルサム。
今でも現役で時を刻んでいます。
明の時代(1368〜1644)にイタリアからから中国に伝わった嗅ぎ煙草は、
上流社会を中心に中国でも大流行しました。
初めは輸入された鼻煙箱に入れ持ち歩いていたそうですが、欧州と違い湿気の多い中国では
高価な嗅ぎ煙草を湿けらせない為にも、 密封度が高い壷状の容器が考えられました。
鼻煙壺素材もまたさまざまに分化し金や銀や錫の金属製・玉や瑪瑙等の貴石の鼻煙壺や、
白磁などの陶器や硝子やエナメル彩・象牙等々、ありとあらゆる素材がこの小さな壺、
鼻煙壺に使用されました。
これは、象牙を手彫りした中国宮廷を描いた鼻煙壷です。
裏表に細工が施された素晴らしい逸品です。
なぜ、オーストラリアのそれも北の端の町ダーウィンにこのような品があるのか
不思議に感じながら買ったのでした。
(マイコレクションNo.7)
次にご紹介するのは、中国の南京に行ったとき、宿泊した金剛飯店の
前にある骨董店で買い求めた「鼻煙壷」です。
時代は、清朝後期のものと思える。
もともとフランス・イタリー等、ヨーロッパの宮廷や貴族の間で使われていたものが、
中国の宮廷へお土産として献上され、以来中国の宮廷内でも作られるようになり
一般にも普及したようです。
清朝康煕帝の頃は、嗅ぎタバコは煙が出ない、身体によいとされました。
嗅ぎタバコは、粉煙草にバニラ・メンソール等の種々のフレーバーを付け、
「美煙壷」から蓋についた耳掻き状の匙で手の甲に取出し、それを鼻の穴に自分で
なすりつけて煙草の香りを楽しむわけです。
「美煙壷」もヨーロッパの主流であった箱型から、官廷内の工房で美しい小さな壷に、
あらゆる素材を使って造られ、民間にも普及し、更に世界中に中国製芸術品として
(マイコレクションNo.6)
『おくりびと』はアカデミー賞の下馬評ではほとんど注目されていなかったが、
授賞式を前に評判も徐々に風向きが変わり、受賞となった。主演の本木雅弘を
はじめ広末涼子や滝田洋二郎監督は現地入りしており、レッドカーペットを楽しんで
いたようだが、受賞が発表された瞬間、喜びを分かち合った。
滝田洋二郎は英語で感謝の意を述べると満場の拍手を浴びた。
『おくりびと』はひょんなことから遺体を棺に納める“納棺師”となった男が、
仕事を通して触れた人間模様や上司の影響を受けながら成長していく姿を描いた感動作。
監督は映画『壬生義士伝』の滝田洋二郎が担当し、人気放送作家の小山薫堂が
初の映画脚本に挑戦。一見近寄りがたい職業のように感じる納棺師に焦点を当て、
重くなりがちなテーマを軽快なタッチでつづる。
キャストには本木や広末のほか、山崎努や去年亡くなった峰岸徹ら実力派がそろい、
特に主演の本木が見せる見事な納棺技術に注目。
さらに2月9日ブログで紹介した「つみきのいえ」が短編アニメーション賞獲得
加藤久仁生監督の「つみきのいえ」が日本人監督の作品として初めて、
アカデミー賞の短編アニメーション賞を獲得した。
02年度に宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」が長編アニメ賞を受賞したが、
短編部門でも日本アニメの底力が認められた。
加藤監督は1977年生まれ。多摩美大在学中からアニメーション製作に取り組んだ。
卒業後、映画製作会社ロボットに所属して、テレビCM用などのアニメを手がけてきた。
今回の他の候補作は「ラバトリー・ラブストーリー」「オクタポディ」「マジシャン・プレスト」
「ディス・ウェイ・アップ」。
いずれもコミカルな味わいが強く、哀愁を感じさせる「つみきのいえ」は異色の作品だった
先週はそば猪口をご紹介しましたが、今週は別の種類のアンティークを・・・
「猪口」は50客ほどありますが、こればかり紹介しても面白くないかもしれませんので、
次に、日本のものではありませんが、不思議な器、「鼻煙壷」(びえんこ)を紹介します。
初めて手に入れたのは、20年ほど前にシンガポールに行ったときです。
写真のラクダを描いた小さな壷を目にしたのでした。
買い求めたときは、この小さな壷が何に使われたかわかりませんでした。
しかしながら、手のひらの上にちょうど落ち着く大きさの、蓋つきの壷
そして、絵柄、素材の面白さに惹かれていきました。
鼻煙壷(びえんこ)とは、嗅ぎタバコ入れでした。
嗅ぎタバコ(粉末にしたタバコの葉)を吸い込み、
その刺激を楽しむタバコ入れのことで、17世紀頃ヨーロッパから中国に伝わり、
上流社会を中心に流行しました。
はじめの頃は、箱型の容器が使われていましたが、やがて小さな薬瓶の
ような鼻煙壷が作られるようになり、素材もガラス・玉・天然石・象牙など、
徐々に凝ったものになっていきました。
この品は多分清朝時代に輸出され、イギリス人がもっていたものが
シンガポールに残ったのだと思います。
シルクロードのイメージで、好きなアンティークの1つです。
(マイコレクションNo.5)