袁世凱 孫文
清朝の終焉
清では咸豊帝(1831-1861,在位1859-1861,文宗)病死のあと、咸豊帝と
西太后(1835-1908)の子である同治帝(1856-1874,在位1861-1874,穆宗)が
5歳で立ちます。この時代は西太后と東太后(咸豊帝の正室)が協力して幼帝を支え、
安定した政治が行われていました。
しかしやがて同治帝が若くして亡くなると、西太后は自分の妹の子である
光緒帝(1871-1908,在位1874-1908,徳宗)を立てて独裁を始めます。
しかしやがて成長した光緒帝は西太后と距離を置き、大胆な改革を
断行しようとします。これに対して西太后ら保守派が反発、1898年戊戌の政変を
起こして光緒帝を幽閉し、まさに名前だけの皇帝にしてしまいました。
このことにより上からの改革に失望した改革派たちは下からの革命の方向に
走り出します。
1899年に義和団が蜂起。これが北京に及んで外国の公使館の領域を侵略したため、
西洋諸国は連合軍を派遣してこれを退けましたが、戦乱のため西太后たちも
一時期北京から避難するほどの騒ぎになり、政体は極めて弱体化しました。
更にこの義和団事件に関する西洋諸国との議定書(辛丑条約)により、清朝は
莫大な補償金の支払いまで課せられます。
1905年には孫文が日本で中国革命同盟会を結成します。
そして1908年には、西太后及び幽閉されていた光緒帝が相次いで病死します。
そして皇統は光緒帝の甥である宣統帝(1906-1967,在位1908-1912,溥儀)に
受け継がれました。
辛亥革命により清朝滅亡
辛亥革命(第一革命)はこのような状況の中で勃発し、蜂起は全国に波及して各地で
省の独立宣言が相次ぎます。そして1912年中華民国が成立して、孫文が臨時大総統
に就任しました(2月に袁世凱に交替)。まだ6歳の幼帝・溥儀は訳も分からないまま
退位ということになり、清朝は滅亡しました。
その後溥儀は戦乱の中やがて日本軍に満州国皇帝に祭り上げられ、戦後は戦犯
としてソ連に抑留され、文革にも翻弄され、最後は一介の植木職人として
その生涯を閉じるという波乱の人生を送ったことは周知の通りです。
さて革命の方は中華民国成立の翌年1913年に第二革命によって袁世凱が孫文を排斥。
孫文は日本に亡命します。
袁世凱は元々西太后の大臣を務めた人ですが辛亥革命が起きるとこの革命政府と
うまく妥協してその中心人物になりました。そしてこの第二革命で実権を完全に
掌握すると1915年8月、皇帝になる旨の宣言をします。
1916年1月1日より元号を「洪憲」としました。
しかし今更民主化の波を押し返すことはできませんでした。
反帝政の運動が盛り上がり、同年12月第三革命が起きて動乱のうち1916年
袁世凱は亡くなりました。
その後中華民国は何人かの総統が1〜2年単位で交替する中、やがて共産党の勢力も
台頭し始めます。両者は外国に対抗するため1924年第一次国共合作。
そしてその頃から日本の中国侵略が盛んになっていきます。
1931年には日本が満州事変を起こして東北部に満州国を設立。
更に1937年からは本格的な戦争状態に突入。
しかしやがて1945年日本の敗戦とともに、中国全土での主権回復。
1949年の中華人民共和国成立まで、激しい戦乱の時代が続きました。