広州は、中国で最も古くに開かれた貿易港で、海のシルクロードの起点として
栄えてきた。
古代の東西貿易に関しては西域のシルクロードが有名だが、海上による交易も盛んで、
その中心は広州だった。
661年(唐顕慶六年)、中国初の税関“市舶師”が広州に設けられた。
741年(唐開元29年)には広州城の西に外国人居住区“蕃区”も設けられている。
751年に広州を訪れた鑑真和尚は当時の広州の繁栄ぶりを次のように記録している
「江中に婆羅門(インド)、波斯(はし)、崑崙(東南アジア)等の舶(ふね)
有りて、その数を知らず。並びに香薬珍宝を載せ、積載すること山の如く、
舶の深さは六、七尺なり。獅子国、大石国、骨唐国、白蛮、赤蛮等、来往居住する
もの種類きわめて多し」と海上交易の盛んだったありさまを書いている。
唐代の史籍によると当時広州には12万〜20万のアラブ人、ペルシア人が
居住していたという。唐滅亡後、福建から移ってきた劉氏が広州に大越国を建国、
翌年、国名を“漢”とした。
これが広州にできた二つ目の王朝で歴史上は南漢(917-973)とよばれる。
劉氏をアラブ人だったとする説があるがその真偽は分からない。
宋、元、明と歴史は流れ王朝が変っても広州の対外交易港としての地位は変らなかった。鎖国政策をとった清朝ですら外国船に対して広州一港に限り通商を認めていた。
しかし、繁栄を続けていた広州の歴史は、アヘン戦争によって大きく変った。