クメールのドヴァーラヴァティ王国の王女だった。
大変な美女であり、国民に慕われていた。
その王女が8世紀に創建した重要な寺院が
「ワット・チャーマ・ティウィー」である。
日本の平安京時代以前のことである。
ここにあるチェディが、チェンマイにある
「ワット・チェディ・リアム」の元となった仏塔だ。
多層式四角錐の表面に60体の仏像が納められた
高さ21mの古い石造仏塔が目を惹く。
8世紀の建立当時は金色の装飾で覆われていたそうだが、
現在は煉瓦むきだしである。
チャーマ・ティウィーは、この仏塔を建てたハリプンチャイ王国の
初代女王の名前である。
台座には彼女の遺骨が納めらえている。
]]>都市国家(ムアン)のハリプンチャイ王国があった「ランプーン」を訪ずれた。
チェンマイの仏教、芸術、文化の元は、ここハリプンチャイ王国だったかもしれない。
チェンマイから南に25kmほど離れた街である。オートバイで小一時間、
ここにも立派な寺院が残されていた。
モン族は言語的にはクメールに属する種族である。
中央高原ではアンコール王朝の支配下でロッブリーにドヴァーラヴァティ王国を
作っていた。
その王女チャーマ・ティウィーをランプーンに迎え「ハリプンチャイ王国」を設立した。
即ちこの王国はチェンマイのランナータイ王国以前の都市国家だった。
この街に、1044年創建の「ワット・プラタート・ハリプンチャイ」が残る。
ワット・プラタート・ドイ・ステープに似た黄金のチェディは、
高さ46m。20m四方の台座に載っており、
その周りに幾つもの御堂が並んでいる。
またもう一つ古いチェディも聳えていた。
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巡ってみようと考えバイクでチェンマイ郊外の
「ワット・チェディ・リアム」まで走った。
チェンマイの「ランナー王国」の建国が、1296年である。
その建国の10年前にマン・ラーイ王によって建てられた寺院が、
チェンマイの南数キロのところにある「ワット・チェディ・リアム」である。
創建が、1286年といわれている。
当時都であった「ウィアン・クム・カム遺跡」のすぐ近くにあり、
非常に特徴のある巨大なチェディ(仏塔)が聳え立っている。
このチェディどこかで見た記憶がある。
以前訪れたランプーンにある「ワット・チャンマ・テウィ」のチェディに
そっくりなのだ。
チェンマイのどの寺院にもない仏塔。
何故マン・ラーイ王は、自ら滅ぼしたハリプンチャイ王国の寺院と
同じような形のチェディ造ったのか?不思議である。
]]>明日から訪れる「チェンマイ」は、1296年から260年間に渡って
繁栄したラーンナー王国の都です。
ラーンナー王国は、今のタイ北部だけでなく、ミャンマーの東部、
中国雲南の南部、ラオスの西部を含む広大な地域を占めていたのです。
もともとチェンマイ盆地の先住民は、ルア人でした。彼らはピン川流域に
広く分布していました。
8世紀頃モン人の国ハリプンチャイ王国(都はランプーン)ができました。
この王国は、400年ほどチェンマイ盆地を治めました。
その後1296年ラーンナー王国に滅ばされ、都はチェンマイに移りました。
この頃、南部のスコータイにスコータイ王国が設立されました。1238年のことです。
スコータイは、タイ人による最初の統一国家なのです。
ラーンナー王国のマン・ラーイ王、スコータイ王国のラームカムヘーン王、
パヤオのパヤ・ガム・ムアン王はいずれもタイ人の首長でした。
チェンマイにある3人の王の像は、この1287年の同盟を記念して造られたものです。
同盟することでハリプンチャイ王国に勝ちランナータイ王国を建国することが出来たのです。
]]>数年前台風で水害にあい2年ほど改修工事をされていたせんぐう館が
ようやく今月開館しました。
外宮手洗い場左手、勾玉池に面して建つ「せんぐう館」
「神宮式年遷宮を伝える」ことを基本理念としており、
20年に一度繰り返してきた式年遷宮の工事に使われた道具、
神事や装束、神宝などの一部を展示する施設です。
この施設は、あまり知られていないのか、観覧客は、まばら、もったいないです。
もっと観てもらいたい素晴らしい展示品があります。
とくにメインとなる外宮正殿の原寸大建造物は、一般には入ることの
できない正宮の一番奥の正殿を実感できます。
太いヒノキの柱や、欄干に載る5色の擬宝珠の玉など
お参りするときに見れない体験ができます。
また、1時間ごとに学芸員による解説もあり、知らなかった伊勢神宮も
発見できます。入館料も300円とお安いです。
(館内は撮影禁止ですので、パンフレットの写真を掲載させていただきます。)
]]>陛下はほろの取り外された儀装馬車、皇后さまは即位パレード「祝賀御列の儀」で
使われたオープンカーで内宮参道を進まれました。
天皇陛下は午前9時20分すぎ、伝統装束「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」姿で
馬車に乗り、皇室の祖先神とされる「天照大神」を祭る内宮の「正宮」へ。
皇位の証しとされる剣と璽(じ)と共に正殿へと進み、玉串をささげて拝礼した。
玉串は伊勢神宮祭主で陛下の妹の黒田清子さんの手で神前に供えられた。
続いて、十二単(ひとえ)姿の皇后さまがオープンカーで正宮に向かい、
拝礼。
2日間の式典を終えられ13時40分頃、実家の前を通られ近鉄宇治山田駅に
向かわれた。残念ながらこの時はオープンカーではありませんでした。
]]>「青峯山・正福寺」にお参りすることに決め、オートバイで向かう。
青峯山頂上付近くのこの寺院、創建は奈良時代、何と七五〇年頃なのだそうだ。
天平期の僧 行基が建立し、八〇七年弘法大師空海により、
朝熊山金剛正寺と並び真言密教の中心として栄えたといわれている。
正福寺(しょうふくじ)は、高野山真言宗の仏教寺院。
山号は青峯山(あおのみねさん)で、同名の山の頂上付近にある。別名は嵯峨御所。
海上守護の霊峰として漁業関係者の篤い信仰を集め、
信者は北海道小平町から鹿児島県鹿児島市まで日本中に分布
青峯山正福寺の御本尊
十一面観音を本尊とする。身丈1寸8分の黄金仏で秘仏として厨子に安置されている。
御船祭の際にのみご開帳となる。
この観音は相差村(おうさつむら、現在の鳥羽市相差町)白浜の海から
クジラの背に乗って現れた黄金仏であるという伝説があり、この時、
クジラがやってきた場所の岬が「鯨崎」となり、観音を乗せたクジラが
石化したとされる「鯨石」もあるのだそうだ。
その後、婆羅門僧正が来訪し観音像を拝むと像が光り、腰蓑の漁夫の
姿になったという。僧正は篤い崇敬の念を抱き、木仏を掘って中に観音像を納めた。
御本尊は 11面観世音
]]>お茶をしに行ってきました。
ヴィラですと1泊17万円。チェンマイでは、フォーシーズンズホテルと
並ぶ超高級リゾートホテルです。
タイ北部の「北方の薔薇」とも称される古都チェンマイにある
「ダラデヴィ・チェンマイ Dhara Dhevi Chiang Mai」は、
かつてのラーンナー王朝時代の「都市づくり」をコンセプトに造られており、
城壁都市(集落の集合)を見事に再現しています。
広大な敷地内に広がる大自然や、ラーンナー王朝を彷彿させる建造物、
そしてこだわり抜かれたレストランなどスケールが違いすぎていました。
「ダラデヴィ・チェンマイ Dhara Dhevi Chiang Mai」、
このホテルのヴィラ1泊が、私が現在滞在中のホテルの48泊分に
なると考えると恐ろしいですね・・・
しかし、私も現役時代、世界最高級のパリの「プラザ・アテネ」や
「ロイヤルモンソー」モナコの「オテル・ド・パリ」や
チェンマイの「フォーシーズンズホテル」に何泊か宿泊しました。
馬鹿ですね・・・
]]>オートバイをレンタバイク屋で借り、
携帯電話のシムカードを入れ替え、3週間の滞在の日常品を買う予定。
こうしておけば、明日から自由に動け回れる。
10時にホテルから近い大型商業施設MAYA(メイヤー)のATMで
お金をおろそうと行くと、平日11時オープンなのだ。
しかたないのでソンテオ(タクシー)をひろい少し離れた
レンタバイク屋まで40バーツ。
宿泊しているホテルのそばのレンタバイク屋は1台1日250バーツである。
125ccのホンダかヤマハのバイク。875円である。
私の顔見知りの店は、200バーツであるがこれを120バーツに割引してくれる。
420円である。20日も借りているとその差は大きい。
日本では、自転車でさえ1日1000円取られるのに125ccのスクーターを
420円で使えるのです。
さっそく借りて、センタンの電気用品市場に行く。
タイでは専用のノキア携帯を持っているが、1年に1度だとシムカードがその都度、
期限切れになる。
新たなシムカードを購入して電話料金を払い込む。合わせて200バーツ(700円)だ。
これでタイ市内通話と日本への電話がまかなえる。
ここにもATMがあったのでカードで2万バーツを出金した。
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羽田空港国際線、タイ航空の乗り場は、一番奥でした
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本寺の草創は、慶長13年(1608年)と伝えられています。
しかしながら、現在の通りから外れており、1回目には、
どこにあるか私には探し当てられませんでした。
伊勢在住の友人、東さんに場所を教えていただきまして、何とか探しあてました。
慶長13年(1608年)創建と伝えられていますが、やはり一度廃寺と
なっているため庭などは、少し荒れていましたが、とても興味深いお寺さんでした。
ご本尊と不動明王立像、弘法大師座像や、紀州徳川家の位牌をまつっています。
普段本堂は閉められておりますが、訪ねた時、偶然ご住職が
いらっしゃったのでご本堂を開けてご説明していただきました。
また、境内に弘法大師八十八か所の霊場碑があり、
ここを回ることで四国八十八か所巡礼が出来るようになっています。
伊勢は、神宮で成り立っている町なので、お寺をどうも粗末に扱いすぎるような気がします。
歴史ある素晴らしいお寺が、こんなにあるのに伊勢市は、手をつけていないことは、情けない!
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ミステリアスな廃寺である。
廃墟になっているが、池もまだそのまま残されていた。
上社の裏側に位置していて、非常に見つけにくかった。しかし、知人は、
30年ほど前ここで宴会をしたと言う、
昭和のころはまだ、どなたかが、住んでいたのかもしれない。
上社も威勝寺跡も住所は伊勢市辻久留である。
久留家が住んでいた地の辻だったということかも。
寺院としては明治時代に廃寺となったと伝えられている。
この寺は、久留喜左衛門威勝が天文年中(16世紀)に創建したとされ、
寛永20年(1643年)の伊勢市最古の地図にも大きく描かれている。
境内には、池も残されており、池辺に弁財天座像(室町時代)を祀る
小祠があります。
夜一人で立ち寄るには勇気がいるミステリアスな雰囲気が漂う場所です。
]]>上社(辻久留1丁目)
「かみのやしろ」と読みます。 北向庚申塚のすぐ近くにあり、
このあたりが旧参宮街道のメインロードであったことを示しています。
昔、ここは、外宮の摂社志等美神社・同大河内神社・同本社打かけ神社が
あったのですが、戦国時代荒れ果て、このあたりの住人が地の神(産上神)として
祀って今日に至りました。
宮川堤を守護している神も上社のご祭神です。
川端町の柳の渡しを渡り伊勢神宮に向かう旧参宮街道、ですが、
度会橋が出来てからは、23号が真っすぐ伊勢市駅まで延び外宮に入れるようになり、
人もまばらになってしまいました。
さらに今は2本のトンネルを抜けて外宮へ向かえます。
江戸時代は徳川山を越えて歩いて行ったためこの上社や 北向庚申塚の細い道が
本街道だったと思われます。
]]>青石材、伊勢市で130余の庚申塔中、青面金剛像では最古最大のものです。
青面金剛像は普通3面5臂像が多いのですが、この像は1面2臂です。
道の辻や、寺社や墓地の入り口などによく置かれ、延命長寿にご利益ある
といわれる庚申塚、その中で主流となるのは、「青面金剛刻像塔」 です。
この「青面金剛刻像塔」には、主尊の青面金剛以外に、日月や猿、鶏、
邪鬼、等が配されている。
青面金剛のほうは、本来奇病を流行らす鬼神で、猿の化身ともいわれる。
その容姿については、『陀羅尼集経第九』 に、
「一身四手、左辺の上手は三股叉を把り、下手は棒を把る。右辺の上手は
掌に一輪を託し、下手は羂索を把る。其身は、青色にして大張口、狗牙は上出す。
眼の赤きこと血の如くして三眼あり・・・・・」
とある。要約すると「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、
三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、
足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」姿で現されるが、
一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。
頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いている場合もある。
また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。彩色される時は、その名の通り
青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係している。
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宮川堤(中島1丁目)
宮川はその源を大台ケ原に発する延長およそ130キロメートル
にも及ぶ、三重県最大の河川です。
古くは渡会大河、渡会川、豊会川とも呼ばれました。
下流では古来しばしば氾濫を繰り返し、住民はそのたびに洪水の
被害をうけていました。
平安の昔、平清盛の築堤伝承をはじめ、近世徳川幕府からの巨額の援助を
仰ぐなど両岸住民の堤防の修築保全には、たび重なる努力が続けられていました。
寛永10年(1633年)たび重なる宮川の洪水の被害から人々を護るため、
自ら人柱となったのが庄屋・松井孫右衛門です。
その後は宮川堤が決壊したことがないと伝えられています。
宮川橋の辺りは桜の渡しとも呼ばれ、古くから桜の木が多くありました。
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