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阿片戦争と揚州(ヤンジュー)とマルコ・ポーロの関係
13世紀「東方見聞録」を後に残すマルコ・ポーロが中国にやってきた。
マルコ・ポーロが力をそそいだ塩の道(運河)が、意図せず阿片とも関連が
深くなってしまったのだ。
malco
1254年ヴェニスで生まれ、16歳のときシルクロードを経て中国に入った。
この時中国は、元王朝で、彼はフビライ・カーンに拝謁し大変気に入られ、
それから17年間召し抱えられることとなった。
中国には、長江と黄河の大河川があるが、南北を結ぶ河川は無かった。
しかし6世紀隋の時代楊帝が南北に結ぶ大運河の工事に百万人を使役させた。
これが現在の京杭大運河の基礎となった。
その後歴代王朝はみな運河の拡張工事に力をそそぎ、現在の南北運河は、
北京から黄河、准河(ワイガ)、長江を横切り、杭州まで続く「京杭大運河」
と天津から通州へつながるわき道の運河を合わせて、全長は1794kmに達している。

元王朝に召し抱えられていたマルコ・ポーロが大運河を北から南へ辿った船旅が
13世紀にあった。
首都・大都(今の北京)から大運河を南下し、南方の福建省までくだったのだ。
その旅の前半、長江河口部の上海にいたるまでの運河流域は、製塩業を生業とする
ことで名高い水郷地帯である。
水郷地帯で造られた塩は、網の目のように広がる水路を伝って大運河に集まり、
揚州へ運ばれ、そこで大規模な塩の取引が行われた。
元時代の揚州は、塩取引の一大集散地であるばかりでなく、重要な軍事都市でもあった。
マルコ・ポーロもこの揚州で3年間官吏として勤務したといわれている。
当然かなりの要職にあったと思われるが正確な記述はない。
塩の道は、中国経済の基盤を築く動脈となった。しかしこの運河網が阿片を蔓延させる
毒の道となってしまった。
広東に入って来た阿片は、南北の大運河を通じ、またたくまに中国全土に広がって
いった。

私自身、揚州に、10年ほど前行った。南京の逝江省の役人とお会いしていたとき
一度揚州に連れて行きたいといわれ、近いのか?と尋ねたら・・近いと言われた。
それじゃ・・・と行ったのだが
南京から自動車で舗装されてない道をひた走り、なんと片道5時間。
彼らにとって5時間は、近い道のりなのだ・・・・・
改めて中国の広さを感じたものだった。
| 世界の旅・中国 | 07:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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