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その渋谷金王丸の名声とは

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                               金王八幡宮境内にある「 金王丸御影堂」
渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、渋谷平三家重の子で、

永治元年(1141)8月15日に生まれました。

重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が

妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。

そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。


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金王丸17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を

轟かせました。続く平治の乱(1159)では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち

寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により敢えない最期を遂げました。

金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊

と称して義朝の御霊を弔いました。

(平治物語には、金王丸は出家して諸国を行脚し義朝の御霊を弔った、とあります。)

金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに

当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。

壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう

昌俊(金王丸)に命じました。昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、

百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。

昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を

遂げました。

金王丸の名は平治物語、近松戯曲などに、また土佐坊昌俊としては源平盛衰記、

吾妻鏡、平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれます。

そして金王丸の名声により、当八幡宮を金王八幡宮と称するようになりました。

 

平家物語の平清盛に討たれた源氏棟梁 源義朝(よしとも)の部下であった。

その後 源頼朝から義経を討つ命を下されたが、自ら死を選んだのだ、

それが「渋谷金王丸」である。

 

八幡宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、

自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。

渋谷氏の後裔は全国各地に連綿と続いておりますが、明治の元勲

東郷平八郎元帥も渋谷氏子孫の一人だそうです。


渋谷ねぶたの金王丸
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