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ブラジル移民の歴史

初期の移民

1908年笠戸丸でブラジルに到着した793名の日本人移民たちは、サンパウロ州の

6つの農場にそれぞれ配耕されたが、そこでは厳しい現実が待っていた。

 
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たとえば、ドゥモン農業商会が経営する農場に入った日本人移民たちは、

労働条件の悪さに2ヶ月ももたずに逃げ出してしまった。その他の農場も

似たりよったりで、数ヶ月もしないうちに大半の日本人移民たちが農場から

逃げ出していった。

 

日本人移民たちが直面した労働条件の悪さとは、コーヒーが老樹で収穫量が少なく、

重要な収入源であるコーヒーの実の収穫賃金が移民会社で聞いたものより大幅に

少ないというのが大きな原因であった。 

その他にも住居や食事の事情が想像以上に劣悪なものであったとか、言語習慣の

違いから農場側との意思の疎通を欠いたなどという理由も脱耕、退耕の原因で

あったと思われる。

契約を反故にして逃げ出す日本人移民はさらに増加し、1909年9月の時点では

最初の契約で雇用された農場に残ったのは僅か191名に過ぎなかった。

笠戸丸移民の失敗原因は、殖民会社の経験不足、誇大宣伝、資金不足、

それに不誠実さであった。

笠戸丸移民の悲劇は詳しく日本政府にも伝わり、このため、第2回移民の送り出しは

政府から拒否され、皇国殖民会社は倒産した。

このような経緯から第2回移民が日本を発ったのは2年後の1910年であり、

新しい殖民会社によって募集された906名の移民を乗せた旅順丸は同年6月28日に

サントスへ入港した。

サンパウロ州奥地の農場へ配耕され、先着の笠戸丸移民同様に風習等の違いなどで

適応にたいへんな苦労を強いられた。

ちなみに、モジアナ線のジャタイ農場に配耕された移民たちは、

前述の笠戸丸移民と同じ問題のため全員が農場から追い出された。

旅順丸移民も1年も経たないうちに脱耕、退耕は200名以上に達した。

 

日本政府は、旅順丸移民の不業績を理由に再びブラジル移民を一時見合わせ。

第3回移民が送り出されたのは1912年。

再び政府許可をとった殖民会社は、厳島丸1400名をブラジルに送った。

これ以降、第4回移民船の神奈川丸1912年6月サントス着。1412名)、

雲海丸1913年5月着。1500名)、若狭丸1913年5月着。1588名)と

続々と日本移民が新天地に到着しはじめた。

時の経過とともにこれらの日本人移民たちはブラジルの風習に慣れるようになり、

それとともに農場側との紛争も徐々に減少し、コーヒー農園での仕事も

長続きするようになった。

 
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