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海外で高く評価されている柴田是真(しばた ぜしん)とは?
是真の「印籠」が英国のオークションで3900万円で落札されたとお知らせしました

この「柴田是真」について我々はほとんど知らない!

taiyou 2009年に「別冊太陽」が発売されている。

どんな人だったかを記すと 
柴田是真は、文化4年(1807年)に、柴田市五郎の子として、江戸両国橘町に生まれる。
父は商家に入った後も、彫工として宮大工の仕事に参加した職人であり、
浮世絵を好み勝川春章に師事していた。
11歳の時より、職人気質を重んじ精巧な細工に特色を示す古満寛哉に蒔絵を学ぶ。

ついで16歳で画工の図案に頼らず仕事をするため、鈴木南嶺に四条派の絵を学んだ。
「令哉」の号は、南嶺の嶺の字の一部「令」と、古満寛哉の「哉」を
採った名である。

文政7年(1827年)、当時売り出し中の浮世絵師歌川国芳が、是真の扇絵に
感動し弟子入りしようとしたが、是真は初め固辞するが弟子とし、
国芳に「仙真」の号を与えたという逸話が残る。

天保元年(1830年)に南嶺の紹介で、四条派の本場京都画壇の俊英である
岡本豊彦の弟子となる。
京都にいた2年間に香川景樹に歌学と国学を、頼山陽に漢字を、吉田宗意に茶道を学ぶ。

江戸に帰った後、師南嶺に再会、その驚くほどの進歩を認められ、
新たに字「儃然」と「是真」を号するようになった。
この字と号は、荘子外篇・田子方篇、第二十一に由来する。

またこのころ、神田川をはさんで柳原の対岸、浅草上平右衛門町に居を移し、
以後、對柳居と号し好んで使用した。同時期に当時11歳の池田泰真が
弟子入りしている。また、天保12年(1841年)、東北各地を巡った。
弘化年間(1844年 - 1847年)より名が知られるようになった。

zeshin

青海勘七以来絶えていた青海波塗を復興し、青銅塗・四分一塗・鉄錆塗・
砂張塗・紫檀塗・墨形塗を発明し、画人として、次いで漆工として名をなしました。

また漆絵を好んで描いています。
明治6年のウィーン万国博覧会に「富士田子浦蒔絵額面」を出品して
進歩賞牌を受賞したのをはじめ、国内外の博覧会・展覧会で多く受賞しました。
明治23年、帝室技芸員に補せられています。

| 美しきもの | 07:36 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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