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「民藝」を日本人に認識させた「柳 宗悦」についてもう少し紹介します

柳 宗悦は

海軍少将を父親に持ち、学習院初等科から中等科、高等科へと進み、

この間、後の『白樺』の主要メンバー、上級生の志賀直哉、武者小路実篤、

木下利玄、里見らと出会い、明治四十三年(1910)の創刊の『白樺』

同人として参加。

同年、東京帝国大学文科大学哲学科に進み、その頃から西洋の芸術に関心を持ち、

ハインリッヒ・フォーゲラー、ロダン、ホイットマン、ウイリアム・ブレイクに

関する論文を『白樺』に発表していった。

ある時友人からいただいた朝鮮の雑器である小品に「美」を見出した。

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柳宗悦は名も無き工人、貧しき民衆が作り出した工藝を〈野に咲く花〉と言った。

野に咲く花は野にあってこそ美しいのではないか。

柳宗悦は、工藝は廉価でなくてはならぬと言う。

 

柳宗悦は、1916年(大正5)以降たびたび朝鮮半島に渡る。

そこで柳の心をとらえたものは、仏像や陶磁器などのすぐれた造形美術の

世界であった。そして、その美しさに魅了された柳は、それを生み出した

朝鮮の人々に対し、かぎりない敬愛の心を寄せることとなる。

柳は、日本の朝鮮政策を批判する文章を発表する一方、1924年(大正13)には、

日本民藝館の原点とでもいうべき「朝鮮民族美術館」をソウルに開設する。


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そこに陳列された品物の多くは李朝時代の無名の職人によって作られた

民衆の日用雑器で、それまで誰ひとりその美的価値を顧みるものはいなかった。

しかし、柳はその美をいちはやく評価し、民衆の生活に厚く交わる工芸品の

なかに、驚くべき美の姿があることを発見したのであった。

李朝工芸との出合いによって開眼された柳の目は、自国日本へと向けられていく。
まず、柳の目を引きつけたものは、
木喰上人という遊行僧の手になる木彫仏であった。

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木喰仏と呼ばれるこの江戸時代の民間仏の発見をひとつの契機として、

柳の目は民衆の伝統的生活のなかに深く注がれ、そこに息づくすぐれた工芸品の

数々を発見していった。

 

民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界。その価値を人々に紹介しようと、

「民藝」という言葉を作ったのは1925年(大正14)のことであった。

 
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