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坂本龍馬・海援隊の「いろは丸」の画像が発見される
 

長崎市歴史民俗資料館は7月27日、坂本龍馬が海援隊で運用した

西洋式蒸気船「いろは丸」を描いたとみられる絵画を確認したと発表した。

 

同船と推定される絵が見つかったのは初めて。

同資料館が現在展示している、

江戸末期の長崎港の艦船を記録した「白帆注進外国船出入注進」

(財団法人鍋島報效会所蔵)の中で、確認した。

資料では「いろは丸」と明記されていないが、赤地に白の蛇の目の家紋が

所有者だった大洲藩(現愛媛県大洲市)のものであることや、資料に残された

3本マストや、スクリュー船といった特徴などが「いろは丸」とほぼ一致しているという。
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沈没した「いろは丸」とは?

慶応3年4月23日(1867年5月26日)23時頃、海援隊の武器などを積載した

「いろは丸」と紀州藩の軍艦・「明光丸」が現在の広島県福山市鞆の浦沖の

六島付近で衝突した。

いろは丸は大破し自力航行不能となって、鞆港へ曳航される途中に宇治島沖で

沈没した。搭乗していた龍馬と海援隊は鞆の浦に上陸し、龍馬は廻船問屋の

升屋清右衛門宅で数日間身を潜めた。

なお龍馬らは武器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいた

と主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ事件の原因を追及、

紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの龍馬は万国公法を持ち出し

紀州藩側の過失を追求、さらには民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を

流行らせ、

事故から1ヶ月後に紀州藩が折れ8万3526両198文を弁償したとされている。

これは、坂本龍馬一流のふっかけで事故の補償金で稼いだのだ。

| 坂本龍馬 | 07:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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