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世界一高い電波塔の東京スカイツリー(634メートル、東京都墨田区)と
一帯の街区「東京スカイツリータウン」が5月22日午前9時40分、開業した。
当日の来場者は約20万人の見込み。
運営会社によると、初日の入場券9000枚は完売。
7月10日まで完全予約制で、連日ほぼ満員状態という。
総事業費は650億円。中国の広州タワー(600メートル)を抜き、
世界一のタワーとしてギネス記録にも認定されている。
「東京スカイツリー」
高さ634メートルが東京や埼玉、神奈川の一部を含む旧国名
「武蔵(むさし=634)」の語呂合わせで決まったのは有名な話だ。
一方で、東京タワー(333メートル)の倍の666メートルといった
“幻の候補”もあったそうだ。構造設計上は640メートルが限界のため、
666メートルのツリーは実現しなかった
事業主体の東武鉄道によると、628メートル(浅草寺創建)や、
645メートル(大化の改新)のように年号にちなんだ案もあった。
子供の成長をイメージし、小、中、高校生の在学年数を並べた633メートルも
候補に挙がったが「外国人に理解されにくい」との理由でいずれも却下された。
2006年に発表した計画では610メートルだったが、その後、中国の
広州タワーも600メートル級を想定していることが分かり、世界一を
目指すため「34mの背伸び」が決まった。
話はかわるが、昨日1日で、このブログ「ポルタジョイエ」のアクセスが
40,524アクセスあった。
いままで1日の最高が 15,000ほどであったので驚きである。
多分ある記事が、検索エンジンの上位に位置したのだと思うが、一気にこれだけの
アクセスがあるというのは怖いほどである。
それだけに責任もって書いていかなければいけないと真剣に思う今日である。
ここ吾妻橋(東橋)に「東京スカイツリー」が造られたのには、訳がある。
江戸時代にすでに「東京スカイツリー」からの江戸の町を望んだ浮世絵があったのだ。
下の浮世絵は、まさに東京スカイツリーの展望台からの景色である。
それは、鍬形恵斎(くわがた・けいさい)=北尾政美が江戸時代に描いた
「江戸鳥瞰図」だ。
当時世界一、人口百万人、大江戸の繁栄のさまを
空の上から一望した浮世絵だった。
向島の上空から西の方向を見渡す。真正面に富士山がみえる。
隅田川が右から左にゆるやかに流れ江戸湾にまで注ぐ。
手前の吾妻橋を渡るところに浅草・浅草寺、上野寛永寺
青山、赤坂、そして左に新橋、品川、遠く千葉まで描かれていた。
これは、NHKの牧野氏に見せていただいたボストン美術館所蔵の「江戸鳥瞰図」。
見せていただいたデーターには、地名がカタカナでかかれており
観ながら写生しないとこれだけ精密な絵は書けないと私は思う。
鳥瞰図(ちょうかんず)と名づけられているので
鳥となって空から見通した絵なのであるが、当時何かに乗って吾妻橋の上から
江戸を写生したとしか考えられないほどの細密画である。
前に、邦芳が描いた「東京スカイツリー」が書かれている浮世絵を
ブログで紹介したが、実を言うと、江戸時代本当にここにスカイツリーが
あったから、「江戸鳥瞰図」のようなすごい浮世絵がうまれた。
このような見方を浮世絵で愉しめるとは、NHKの牧野氏に
教えていただいたからこそである。浮世絵 深い!
クライマックスを迎え、重さ約1トンの本社みこし3基が2年ぶりに「宮出し」され、
街を練り歩いた。
3日間続く祭りの最終日。東京スカイツリーを背景に、はんてんに鉢巻き姿の
担ぎ手たちは「ヨイサ、ヨイサ、ウワー」と声を合わせ、みこしを縦に横にと
大きく揺らした。
今年は三社祭の起源「舟祭(ふなまつり)」が始まって700年の節目。
昨年は東日本大震災の影響で中止になったため、2年ぶりの開催となった。
期間中の3日間の人出は、前回を約22万人上回る約184万人に上った。
5月22日に開業する東京スカイツリーの最寄り駅となる
東武伊勢崎線業平橋駅(東京都墨田区)が今日3月17日、
「とうきょうスカイツリー駅」に名称変更された。
午前0時31分、最終の浅草行き普通電車が出発し、
80年余に及んだ業平橋駅としての営業を終了。
駅名の看板や路線図が掛け替えられた。
歴史ある在原業平の名前を記念した業平橋駅が消えたことは
残念である。
江戸時代に鍬形恵斎(くわがた・けいさい)が描いた
「江戸鳥瞰図」が、大きな要因となったのです。
向島の上空から西の方向を見渡す。真正面に富士山がみえる。
隅田川が右から左にゆるやかに流れ江戸湾にまで注ぐ。
手前の吾妻橋を渡るところに浅草・浅草寺、上野寛永寺
青山、赤坂、そして左に新橋、品川、遠く千葉まで描かれていた。
この図は、東京スカイツリーから観ないと描けない浮世絵なのだ。
200年も前に鍬形恵斎(くわがた・けいさい)=北尾政美は、
時空を超えて
東京スカイツリーの展望台にあがり、この絵を描いたのでした。
絵から推察すると、この位置が「業平橋」だったのです。
父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、
業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、
母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。
血筋からすれば天皇家の嫡流ともいえるが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の
子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)、父・阿保親王の上表によって
臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。
在原業平は、なんと桓武天皇の曾孫(ひまご)なのである。
というのは、
平将門も桓武天皇の血を引く豪族だったから・・・
この地に東京スカイツリーが建設されることは、宿命だったような気がする。
来年5月「東京スカイツリー」完成と同時に「業平橋駅」は「とうきょうスカイツリー駅」に
かわるのだそうだが、業平橋駅の名が消えることは、残念である。
ただし、橋はそのまま残るので良しなのか・・・・
駅名としては、業平橋駅を「なりひらばし」とすぐ読める人が少ないかもしれない。
「とうきょうスカイツリー」であれば、子供でも読むことが出来る。
そもそも鬼門とは何か?広辞苑によると「陰陽道で、鬼が出入りするといって
万事に忌み嫌う方角で、丑寅すなわち北東の称」とある。
江戸の街並みが、江戸時代以前に太田道灌によってつくられたとき
裏鬼門にそびえる富士山と鬼門に位置する筑波山を手掛かりに
して作られたと聞いている。
そして、江戸時代に入り
徳川家康が、鬼門対策においてキーパーソンとしたのは、宗教顧問、
慈眼大師天海。
天海が真っ先に考えたのが、怨霊伝説で有名な平将門の御霊と
惨殺された太田道灌への配慮であったという。
この怨霊に対して、天海は、さまざまな施策をほどこした。
それが、江戸時代、鬼門においた上野・東叡山寛永寺と、裏鬼門の芝・増上寺である。
増上寺には太田道灌の位牌が祀られている。
現代になって
増上寺の境内に「東京タワー」があり、寛永寺の方向に「東京スカイツリー」。
多くの候補地があった東京スカイツリーであるが、鬼門を護る業平橋に落ち着いたのだ。
業平橋にある「東京スカイツリー」の真下まで行き、その後「東京タワー」を訪ねた。
「東京スカイツリー」の開業は、来年5月である。
すでに竣工時の高さ634mまで到達している。
東京タワーの2倍近い高さだ(東京タワーは333m)
先日、江戸城を訪れたとき、二の丸に向かう途中の1箇所だけ、「東京スカイツリー」が
望める場所をブログに書いた。
その「東京スカイツリー」江戸城から見たときに鬼門と呼ばれる北東の方向に
そびえ立っていることにお気付きの方は、あまり多くはないだろう。
増上寺と東京タワー
しかも驚くことなかれ、裏鬼門と呼ばれる南西の方向には「東京タワー」がそびえ
立っているのである。
首都を代表する二つの電波塔が、江戸城の鬼門と裏鬼門の方角に向かい合うように
そびえ立つ。
はたしてこれは偶然なのだろうか。