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この大筋の歴史を踏まえ実際の江戸城内部を紹介してみる
江戸期の城は内郭と外郭に大きく分けて考えることができ、

まず、内郭、内部はさらに本城と西城に分けられる。

 

本城の部分は本丸、二の丸、三の丸からなり、この部分の面積はおよそ

31万平方メートルであった。

 

文字どおり江戸城の中心で、本丸には本丸御殿が建てられており、

表(おもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)の三つの部分からなり、

殿舎は幕府の政治上の中枢部で、老中らが政務を行う御用部屋や、

諸大名、外国使節らの謁見(えっけん)などが行われる大広間や、

白書院、黒書院などの座敷があった。

中奥は将軍が日常起居し政務をみたりする「官邸」であり、

大奥は将軍の夫人(御台所(みだいどころ))を中心に後宮の女性が生活する

場所で、いわば「私邸」であった。

tensyu2 


この本丸北側に1607年(慶長12)完成の
五層六重の天守閣が建てられていたが、

1657年(明暦3)の明暦(めいれき)の大火で類焼し、以後は再建されることなく、

城内の富士見櫓(やぐら)(3層)によって代用された。


tensyu1
                                 火事の後は、石垣だけが残っている

二の丸は本丸南側および東側に南北に細長い形をしており、

三の丸はさらにその東側に位置し、江戸期の城の遺構がいちばんよく残る

部分である。

すなわち、大手門(渡櫓は復原)、平河門(ひらかわもん)、桔梗門(ききょうもん)などがある。

西城(西の丸、山里曲輪(くるわ))の西の丸は前将軍の隠居所、

次将軍の居所として用いられた所で、ここに伏見櫓がある。

 

明治維新後、明治天皇が入ったのは西の丸で、1873年(明治6)に

西の丸御殿(皇居)が炎上したあと、同じ場所に明治新宮殿が1888年に

建てられている。

| 江戸城 | 07:46 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
徳川家康が江戸城に入った時、江戸城はそれほど大きい城ではなかった

家康、秀忠、家光 三代の将軍が江戸城を拡張していったのだ。

 

まず入城した徳川家康によって大改修が施された。

家康は、道灌時代の子城、中城、外城に分かれていた曲輪(くるわ)を一つに

まとめてこれを本丸とし、山下に二の丸、三の丸を設け、

さらに1592年(文禄1)豊臣秀吉が伏見に隠居城を築いたのに便乗して、

隠居城として西の丸を設けた。


edo1今は無い本丸

関ヶ原の戦いを経て1603年(慶長8)に家康が征夷大将軍になるに及んで、

江戸城は単なる大名の居城ではなく、政治、経済上の中心としての位置づけが

加わり、江戸城の整備が要請されたのである。

以後、各地の大名を動員しての天下普請が行われ、家康の代では終わらず、

2代秀忠(ひでただ)、3代家光(いえみつ)に引き継がれ、

結局、1606年(慶長11)から1636年(寛永13)まで大工事が7回も行われた。

 

最終的には6代将軍家宣(いえのぶ)のとき、1710年(宝永7)芝口門(しばぐちもん)が

できて、東西約5キロメートル、南北3.9キロメートルに及ぶ日本最大の城が

できあがったのだ。

 
| 江戸城 | 07:31 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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