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上野樹里なかなかよかった。
その江が徳川秀忠と埋葬されているのが、ここ増上寺である。
紹介するのは、本堂ではなく門の2階のことである。
戦後初の公開だった。
増上寺・三解脱門
「戦後初となる、増上寺・三解脱門の一般公開」
行ってまいりました。
増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を
誇るこの門は、中門にあたり(表門は大門)、正式名称を三解脱門といいます。
徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。
元和八年(1622年)に再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された
当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。
むさぼり(貪欲)、いかり(瞋恚:しんに)、おろかさ(愚癡:ぐち)の三つの毒から離れ、
極楽浄土に入る心をつくるための門だそうです。
建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、
和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。
二階内部(普段非公開)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。
今だけ国指定重要文化財 『三解脱門』 の中に入れる唯一の機会です。
三解脱門の上から浜松町方向を望む。江戸時代は海が見えたのだろう。
それも、将門首塚方向を望んで立っているのです。
もし、将門を監視するのだったら坂之上田村麻呂じゃないのか・・・
和気(ワケ)が分からない・・・
そんなことを思いながら和気清麻呂について調べると
時代は称徳(孝謙)といわれる女性天皇の御代。神護景雲3(769)年。
この女帝、仏教の師であり医師兼相談役としての道鏡を溺愛してしまった。
子どもがいなかった女帝は自分の後継ぎにこの道鏡をと考えた。
弓削道鏡は、蘇我に滅ぼされた物部の氏族。当然天皇になどなれる家柄ではないが、
称徳天皇の後ろ盾もあって仏教界の最高位法王として絶大なる権力を持っていた。
この女帝と法王に取り入られようとする者も現れる。大分の宇佐八幡神社から
「道鏡を天位につければ天下は安泰する」との神のお告げが届いた。
このお告げを確かめるべく宇佐まで派遣されたのがこの和気清麻呂公。
女帝から信頼を置いている世話役である法均尼の弟である。
(和気=分はその昔に大王家から分かれたとの伝承を持つといわれる。)
おそらく道鏡かその取り巻きから、良い回答を持って帰ってくれば取り立ててやるという
旨のささやきはあったであろう。
しかし、その清麻呂が宇佐まで赴いて持ち帰った答えが
「天つ日嗣は必ず皇儲を立てよ」(天皇にはその血をひく者を!)
清麻呂は女帝・道鏡の意向を知りながら敢えて信念を貫き、
皇系の血筋を守ったわけである。
道鏡の怒りをかった清麻呂公は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて
脚の腱を切られた上、大隅国へ流された。
その途中、暗殺を謀って送られた道鏡の刺客から、突然の天地雷鳴や
300頭あまりの猪の大群が和気清麻呂を護り、さらに宇佐へ詣でたところ、
道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご守護により数々の奇跡が
おきたと伝えられている。
結局道鏡は天皇にはなれなかった。その後間もなく称徳天皇が亡くなり、
後ろ盾を失った道鏡は失脚し地方の寺へ送られそこで亡くなった。
この清麻呂公は天皇家「万世一系」を守った忠義の臣とされ、
皇紀2600年奉祝行事(昭和15年)の際にこの大手濠公園に銅像が
建立されたのだそうだ。
銅像の横の碑には「贈正一位」と書かれている。
江戸城というより皇居(天皇家)をお守りする銅像なのであった。
大手門ではなく、江戸城の鬼門方面にあたる平川門から城外に出ます。
平川門
太田道灌(どうかん)(1432〜1486)のころからここに門が作られていて、当時、
門の前には上平川村や下平川村などがあったそうです。
この桝形門(ますがたもん)は高麗門と渡櫓の位置関係が、大手門と逆になって
なぜ逆になったかというと、渡櫓の右端に帯郭門という小門があるためです。
帯郭はここから平川濠を細長く渡り廊下のように竹橋まで続いています。
そして帯郭門の形から推測して竹橋側に対して桝形を守るようにできています。
さらに渡櫓の内側である曲輪(くるわ)は天神濠によって本丸や二の丸・三の丸から
切り離されています。非常に関心を引く変わった形式です。
さらに、この門は江戸城の艮(うしとら)の方角(東北)、つまり鬼門(きもん)にあたるため、
「不浄門(ふじょうもん)」とも呼ばれ城内の死者や罪人を出す特殊な用途の門でも
ありました。
また、「御局御門(おつぼねごもん)」とも呼ばれ、大奥女中の通用門としても使用されました。
1701年(元禄14)刃傷(にんじょう)におよんだ浅野内匠頭長矩(1667〜1701)が
出されたのも、1714(正徳 4)風紀を乱したとして大奥の御年寄・江島(えじま)
(1681〜1741)が出されて信州高遠(長野県)に流刑となったのも、この門からでした。
門を出た真正面は、毎日新聞社本社が・・
門を出てお堀端を大手門方向に歩くと、大きな銅像がありました。
なんと「和気清麻呂」の像なのです。
小堀遠州作といわれる美しい庭園は、池を周遊できるようになっている。
ここに泳ぐ大きな錦鯉だが
なにか違う・・・・
日本の錦鯉は尾や、ヒレがこんなに大きくはない。
まるで流金のようだ・・・
この鯉は、天皇がシンガポールの魚と交配させて作り出した鯉なのだそうだ。
江戸城内部の鯉は、私としては日本純血種の錦鯉を飼ってもらいたいと思う。
例えば、紅白、丹頂、大正三色、金昭和などの純血種がふさわしいと思う。
私が鯉に興味を持つのは、以前、実家(伊勢)の庭の池で飼っていた
錦鯉(約40匹)のうちの1匹は、全日本錦鯉品評会で光り物の部門で
金昭和が日本一になり、その年のカレンダーになった。
父が錦鯉に入れ込んでいた時期があったため、自然と好きになったためである。
私の実家の池である。ろ過装置も備え80cmほどの錦鯉が泳ぐ
汐見坂門を下ったところが、「二の丸」である
江戸城二の丸は、将軍の別邸やお世継ぎの御殿が建てられていた場所で、
御茶屋や泉水も造られていましたが、基本的には本丸御殿を簡略化して
造られていました。
雑木林
昭和天皇の御発意により、都市近郊で失われていく雑木林を皇居内に造ろうと、
昭和58(1983)年から3ヶ年かけて造成されたものです。
武蔵野の雑木を残すため数メートルの土もろとも植え替えたので多くの植物が楽しめます。
昭和天皇といえば、忘れられない名言があります。
入江侍従が昭和天皇の留守中に庭の雑草を刈ったところ、お帰りになった陛下が
「どうして草を刈ったのかね?」とお尋ねになられたそうです。
「雑草が生い茂って参りましたので、一部刈りました」と答えたら。
これに対して陛下は一言、
「雑草という名前の草はない」
一流の生物学者でもいらした陛下ならではのお言葉だと思います。
諏訪茶屋
江戸時代には吹上地区にあったものを東御苑整備に当たり本地に移築された。
なお本建物は明治時代の物。
寛永13年(1636年)に竣工した二の丸御殿の平面図 「二之丸指図」を見ると、
いまの二の丸雑木林あたりに御殿が建てられており、
小堀遠州作といわれる庭園の池水は現在とほぼ同じ場所にあります。
慶応3年(1867年) 二の丸の御殿が消失した後、ほとんど顧みられません
でしたが、昭和35年(1960年)の閣議決定で皇居東地区の旧江戸城本丸、
二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備することになり、
「宮内庁楽部」から「汐見坂門」への途中に
江戸城内で唯一「東京スカイツリー」が見られるポイントがある。
「東京タワー」は本丸・天守閣跡から真正面に見える。
後日、書きますが、「東京スカイツリー」と「東京タワー」は、風水上
大変大きな意味を持っています。
宮内庁楽部の道を大手町方向に行くと「汐見坂門」がある。
本丸東側の二の丸御殿曲輪側中央部に汐見坂門が開かれている。
かつてこの汐見坂は、太田道灌時代と後北条時代には
江戸城大手口、正門であったと伝えられている。
道灌時代は日比谷公園あたりまでは、海だったことが確認できている。
道灌時代の江戸、日比谷は湾、田町、浜松町、新橋もこの時点では海の中だ
むかしは本丸の上から江戸湾が一望にみえるので汐見坂の坂名がつけられた。
“紫の一本”には、「汐見坂、梅林坂の上手御門の内なり、此所より海よく見え、
汐のさしくる時は波ただ爰元へ寄るやうなる故塩見坂といふ、今は家居に
かくされて見えず」と記されている。
埋立てられて市街となってからは海も遠くなったようである。
汐見坂門から二の丸へは、かなりの下り坂となっている。
坂の下は、白鳥濠と天神濠の美しい水濠である。
天守から近いところに大奥があった。
写真の松の木のあたりまでが大奥だったのだそうだ。
天守、本丸に向かい左側に桃華楽堂(とうかがくどう)がある。
昭和41(1966)年、香淳皇后の還暦を祝して建設された雅楽の音楽堂です。
桃は香淳皇后のお印の「桃」にちなみ、また「華」の字は、「十」が6個と「一」で
構成されていることから、還暦(かぞえで61)の意味を込めて
「桃華楽堂」と命名されました。
設計は故今井兼次氏で、屋根はテッセンの花を模しています。
その先に宮内庁楽部があります。
赤の現在地が天守閣
大手門
現在、本丸の地は、美しい芝生の広場になっていた。
松の廊下も森の一本道だ。
天守閣も350年間ずっと無い!
天守閣は無くとも、本丸の大きな建物はあり、政務はここで行われた。
天守閣は、1階平面の規模は柱間(7尺間)18間×16間、
最上階は7間5尺×5間5尺、棟高22間半(『愚子見記』)、
5重で鉛瓦葺(『慶長見聞集』)もしくは7重(『毛利三代実録考証』)、
9重(『日本西教史』)ともある。
慶長度天守の復元案は『中井家指図』を基にした宮上茂隆の考証によると、
天守台は駿府城や淀城と同じく20間四方、高さ8間の自然石による広い
石垣の上に、それより一回り小さい天守地階部となる高さ2間の切石による
石垣が載っている2重構造で、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型
としている。
白漆喰壁の鉛瓦で棟高は48メートル、天守台も含めれば
国会議事堂中央塔(高さ65.45メートル)に匹敵した。
作事大工は中井正清としている。
天守閣は何故無くなったか?
それは、明暦の大火で全焼してしまったのだ。
明暦の大火(めいれきのたいか)とは
明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、
当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。
この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大で、
江戸の三大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、
市街地の大半を焼失した。
死者は諸説あるが3万から10万人と記録されている。
江戸城天守はこれ以後、再建されなかった。
この石垣の上に天守閣があったのである。
都営線芝公園から大手町に行く
目的地江戸城の前にどうしても寄らねばならないところがある
それは、
「将門首塚」である。
千代田区大手町1丁目に「平将門(たいらのまさかど)の首塚」???
と思われるだろう。
皇居お堀のすぐ脇、三井物産別館の横にあるのだ。
そして、こここそ江戸城を平将門の怨霊から護るために据えられた塚なのだ。
( 撮影した後で分かったのだが、この煙のようなものは???)
東京メトロ、都営地下鉄の大手町駅C5出口の階段を上がると、「将門塚」、
平将門の首塚がある。
平将門は平安中期の武将、摂政藤原忠平に仕えて検非違使を望むが成らず、
憤慨して関東に赴いた。 伯父国香(くにか)を殺して近国を侵し、939(天慶2)年
居館を下総猿島(さしま)に建て、文武百官を置き、
自ら新皇と称し関東に威を振るったが、平貞盛・藤原秀郷に討たれた。
伝承では、その首は平安京まで送られ、七条河原(東の市、都大路とも)に
晒されたが、三日目に夜空に舞い上がり、故郷へ向かって飛んでゆき、
着地したとされる場所が、ここである。
江戸開幕時には土井利勝の屋敷内、その後、酒井雅楽頭邸や一橋邸の
庭園の一点景として扱われた。 明治維新後、ここが新政府の大蔵省となり、
1906(明治39)年には、塚の上に保存碑も建てられた。御霊神とみなされていた。
1923(大正12)年の関東大震災で、大蔵省は全壊、首塚をかこむ樹々も焼けた。
更地になった上に、大蔵省の仮庁舎が建てられた。
これ以後、大蔵省の官僚には、怪我人や病人があいつぎ、大蔵大臣始め、
死人も出る。 結局、仮庁舎は壊され、鎮魂祭も執り行われ、毎年慰霊祭が
営まれるようになる。 だが、日中戦争の激化で忘れられ、航空局や企画院、
そして大蔵省の庁舎が首塚の上に建てられる。
1940(昭和15)年、その航空局庁舎へ雷が落ち、出火、大蔵省新庁舎など
あたりの建物に類焼した。 その年はちょうど将門没後千年目にもあたっていた。
大蔵省は盛大な千年祭を挙行したという。 太平洋戦争後も、焼け跡となった
首塚のあたりをならして、占領軍がモータープールをつくる計画があったが、
工事にあたろうとしたブルドーザーの運転手が事故死して、占領軍は
モータープールの建設をあきらめた。
GHQまで恐れさせた重要なSPOTなのである。