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人形町駅を出てすぐの「甘酒横丁」交差点から明治座までの約400mの
小さな通りが甘酒横丁と呼ばれる通りです。
明治初期に横丁の入り口に甘酒屋があったことから名づけられました。
今でも酒店や和菓子店などの店頭では甘酒が売られ、下町情緒が感じられる
散歩道として多くの人に愛されています。
甘酒横丁で甘酒をいただかないで、「快生軒」でコーヒーを
大正8年創業「喫茶去 快生軒」
(きっさこ かいせいけん)
創業大正8年(1919年)。8月8日、八並びの日に創業したそうです。
今年の8月8日に創業95年目を迎える趣のある喫茶店だ。
「喫茶去」とは、禅の言葉で「お茶でも召し上がれ」という意味だそうです。
また、安産祈願の水天宮にちなみ、快く生れるとかけ、「快生軒」と
初代が命名したそうです。
現在は、4代目のマスター佐藤太亮(だいすけ)さんと弟の栄祐(えいすけ)さんが
一緒に店を切り盛りされています。
連休の1日を人形町でランチ
洋食「小春軒」
明治45年(1912年)創業の「小春軒」。
山県有朋のお抱え料理人だった小島種三郎さんが、同家の女中頭だった春さんと
結婚し、二人の名前を店名にして開いた店なのだそうだ。
すぐ隣に親子丼の超有名店「玉ひで」があるのでかすんでしまっているが、創業百年を
越えた洋食店である。
この日、特製盛り合わせ1400円をいただいた。
昔っぽいカツで、懐かしい味がした。
今やビジネス街でもある人形町には、江戸時代初期には、遊郭で有名な
吉原(元吉原)が人形町通り東側の辺りにあった。
「大門通り」はその名残である。
1657年(明暦3年)1月の明暦の大火(振り袖火事)で辺り一帯が焼失した事を
機会に、幕府の命で遊郭は浅草寺裏の日本堤付近に移転した(新吉原)。
江戸時代、堺町と葺屋町が現在の日本橋人形町三丁目の人形町通り西側にあり、
歌舞伎小屋の中村座と市村座があった。
また、薩摩浄瑠璃(薩摩座)や人形芝居(結城座)も行われていた。
人形町は通りの名で大坂町、島町、住吉町、和泉町、堺町、芳町がこの通りに
面していたが、1933年(昭和8年)に正式にこれらの町名が「人形町」という町名に
変更された。
街をあるくとこの看板が目に入る。
ヨシカミといえばビーフシチューなのだが、今回はステーキをいただいた。
ヨシカミの由来
大正から昭和にかけて、日本一の娯楽の中心地として繁栄を極めた
東京浅草の中心、六区興行街の一つの裏通りに、昭和26年(1951年)12月末、
客席数わずか10席のオープンカウンター式の店として誕生。
『旨すぎて申し訳ないス!』
このコピーは、コックのマークと共に昭和35年(1960年)頃より、
一つは「下町の酒落」として、
今一つは我々調理人の「ここまで口に出したからにはそれなりの料理を」という戒め
としてキャッチフレーズに採用。
建物も昭和35年に建て替えて以来、暖かみを残すため敢えてそのままです。
3時半ごろだったが、土曜だったこともあり、外に待っている客も多い
浅草に行く用があり、終わった後
鷲神社(おおとりじんじゃ)の「三の酉」だった事を思い出し
行ってみた。ものすごい人出だ。
神社に入るため1kmほどの大行列が出来ていた。
由緒によると
鷲神社は天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)を
お祀りした由緒正しい神社です。
現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めており、また十一月の
例祭も現在は「酉の市(とりのいち)」として広く知られています。
社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、
岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、
天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、
その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だと
お喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と
称される様になりました。
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様
としてこの地にお祀りされました。
後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、
志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、
お礼参りをされました。
その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが
酉の祭、「酉の市」です。
そう呼ばれるようになったそうですが、18世紀末には江戸に進出して繁盛して
いました。
江戸時代から続く砂場は虎ノ門「巴町砂場」、三ノ輪「南千住砂場」の二つ。
「更科」は信州更級郡の反物商の人がお得意のそば打ちで江戸屋敷の
お殿様にそばを献じていて、麻布永坂町にお店を出したことが始まりだそうですよ。
麻布の「永坂更科」には、東麻布にいたころよく通った。
「藪」は雑司ヶ谷の鬼子母神の近くのやぶのなかにあったお蕎麦屋さんが
美味しかったので、名前が広がっていきました。
現在の「薮蕎麦本店」は、幕末、本郷団子坂の蔦屋廃業に伴い、看板を譲りうけた
堀田七兵衛のもの(明治13年)。それが「かんだやぶそば」です。
ついでに江戸時代のお蕎麦事情
蕎麦ははるか縄文の昔から食べられていましたが、蕎麦切り(現在の麺状のお蕎麦)
が文献に見られるのは天正2年(1574)の長野県木曽郡大桑村須原にある
定勝寺の古文書が初見だそうです。
そして徳川家康が鄙びた武蔵野へ入府してからというもの、多数の労働者、
職人衆が全国から集まっており、その人たちの間では安価で栄養価の高い
食べ物として受け入れられていきました。
町の成り立ちを見ても分かりますが、江戸って人口比率がいびつでした。
人足のために江戸に流入してきたのが独身男性ばかりだったため、圧倒的に
男性が多い。それで、吉原のような遊郭が流行ったのである。
寛保3年(1734)の幕府人口調査によると男:31万6000人/女:18万5000人。
だから外食産業が栄えた、そして安くて早くてうまいの三拍子揃ったお蕎麦が
好まれたのです。
また江戸のお蕎麦が「二八そば」と言われるのは、
つなぎとそば粉の割合が2:8だからという説と、
値段が一杯16文だったからという説があります。
この 2×8=16文 の価格は驚いたことに100年間続いたのだ。
ここには、老舗蕎麦「南千住砂場」がある。
江戸時代にすでに存在していた「砂場」のうち、「南千住砂場」「巴町砂場」の2軒は
現在も営業中なのだ。
「南千住砂場」
東京都荒川区の南千住(三ノ輪)、商店街「ジョイフル三ノ輪」の中にある。
江戸時代に記録がある「糀町七丁目砂場藤吉」が移転して存続したもの。
建物は1954年の木造建築で荒川区の文化財指定を受けている。
なお、糀町七丁目砂場藤吉からは、幕末に室町砂場(旧本石町砂場)・
明治初期に虎ノ門砂場(琴平町砂場)が分岐している。
うち虎ノ門砂場の建物は、戦災を免れた1923年建築の木造三階建てのものだ。
ここで、天麩羅蕎麦をいただく。腰のある美味いそばだった。
しかし、不思議な店だ。
VAN、平凡パンチ、アイビーの本が飾られていた。
さらに長嶋名誉監督の現役時代の写真などノスタルチックな画像。
江戸時代からの老舗にはアンバランス!
たまたま、1959年生産のセイコー・クラウンを入手したこともあり
日本の時計の歴史を歩んでいるセイコーの記念館があることを聞いていたので
ぜひ、訪れてみようと電話した。
ここは、予約が必要なのである。
東向島、向島百花園」から5分ほどのところにある。
セイコー時計資料館は、1981年の開館。東洋、西洋の時計技術の進歩や、
100年以上に渡るセイコーの歴史を、数々の展示品や文献、ビデオなどで
見ることができる。和時計もさまざまな種類のものが所蔵されていて、
江戸時代の時計技術の高さを伺い知ることができる
1階「時の進化」フロア
日時計、香盤時計、鉄枠塔時計、振子式掛時計、和時計、
明治初期の米国製掛時計、欧州製懐中時計および
“クオーツウオッチの作動原理”(パネル)などを展示しており、
時の進化の概略を理解できます。
また、鉄枠塔時計、櫓時計(和時計)、ミステリークロック等は、
動態展示されています。
2階「セイコーの足跡」フロア
各時代を代表するセイコーのウオッチ・クロックを展示。
精工舎が1892年に最初に製造した掛時計、日本で最初に
製造販売された腕時計、国内初の自動巻腕時計、世界初の
家庭用クオーツ掛時計、クオーツアストロン、グランドセイコー、
スプリングドライブ等を常時展示しています。
ご説明していただいたのは、横山さんでした。
わたしの着けているセイコー・クラウンも展示されていました。やはり貴重なモデルなのだ
そうでした。
掛け時計の4つ丸のモデルも私は所有しています。これも展示されていて驚きました。
結構貴重なモデルなのだそうです。
セイコーには、大学の同じクラスだった植野文隆君がいたことを思い出し話してみると
横山さんはよくご存知だった。
彼はアメリカ・セイコーの社長を断り退社したことで社内で有名だったそうだ。
百花園とは「四季百花の乱れ咲く園」という意味で、庭園の特徴は、芭蕉の句碑を
はじめ20数基の石碑と園全体の雰囲気が江戸文人趣味豊に作庭されています。
多くの花の説明をしていただいたのだが覚えきれない。
ききょう
かわらなでしこ
春の七草
秋の七草
おいらん
ジンジャー
萩のトンネル
ハギのトンネルとこのスカイツリーが向島百花園のビューポイント
菩提樹
へびうり
珍しい「なんばんきせる」
この日、「セイコー時計資料館」に15時アポイントを入れていた。
墨田区東向島にある。道順に向島百花園があるので立ち寄ることにした。
2時ちょうどだった、ボランティアの方の園内案内に間に合った。
最初におしえていただいた花が、「なでしこ」だった。
意外と可憐な花なのだ・・・
向島百花園(むこうじまひゃっかえん)とは、
東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園で、江戸時代に発祥をもつ花園である。
みどころは早春の梅と秋の萩である。隅田川七福神の「福禄寿」が祭られている。
仙台出身の骨董商、佐原鞠塢(さはらきくう)がもと「多賀屋敷」と呼ばれていた
土地を入手し、文化2年(1805年)に開園した。
360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現江東区)にあった「梅屋敷」に
倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、
文化6年頃より「百花園」と呼ばれるようになった。
江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、著名な利用者には「百花園」の
命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。
当初梅園として営まれたが、その後、園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い
草本類を多数栽培した。園内には多数の野草が植えられ、とくに秋の七草その他、
秋の草花の美しさで知られた。
また、池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名であった。