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プロヴァンスの最終地目的地 マルセイユ
マルセイユ 

2600年の歴史をもつ港町というか、サッカーの元フランス代表「ジダン」の

故郷であることでも有名。

ジネディーヌ・ジダン(ジダンヌ)(Zinedine Yazid Zidane


Zinedine Zidane 2008.jpg

この地をプロヴァンスの最終地として、レンタカーを戻しパリに飛ぶ。
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マルセイユとは?
紀元前600年にフォカイア人が先住民族を制して港を開いてからは、ローマ帝国の

覇権にはいるなど、地中海最高の良港をめぐって激しい攻防の舞台となりました。

この街は、古代からさまざまな人種がいりまじる国際都市で、港町でもあります。

みどころは?
イフ島
デュマの大河小説『モンテクリスト伯』の主人公が、無罪でありながら投獄される

舞台となったところ。『モンテ・クリスト伯』のクライマックスシーンでは、復讐を

果たしたダンテスがこの地を訪れるシーンがあります。
ノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂
海抜154mの丘の上にある聖堂。マルセイユの人々すべてに愛される場所。

ロマネスク・ビザンチン様式の壮麗な教会内部
サン・ヴィクトール修道院
ギリシア時代には石切り場であった場所。4世紀の殉教者のあった場所でもある

ここに修道院が建てられました。古代から中世の人々の祈りに思いをはせれる場所です。
ロンシャン宮
ニーム出身の建築家アンリ・エスペランディーによって建てられた左右対称の宮殿。

向かって左側にマルセイユ美術館、右側には自然史博物館があります。

など、多くありますがあまり時間がありませんでしたのでプチ・トラムで

早足の観光に終わりました。

boui 

マルセイユといえば、やはりブイヤベース(bouillabaisse)でしょう。

もちろんいただきました。

ただし、日本で食べているブイヤベースと違い、最初にスープだけがでてきたことが

驚きでした。

ブイヤベースというと、日本の寄せ鍋的なものと思われがちですが海鮮スープ料理なのです。

もともとはマルセイユの漁師が売れない魚を大鍋で煮たものであったが、後に色々な魚が

使われるようになったのです。

魚もクエ、マハタ、メバル、キジハタ、カサゴ、アイナメ、オコゼ、クロソイ、ムラソイなどを

5種類以上入れます。

| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:43 | comments(7) | trackbacks(0) | pookmark |
「アヴィニヨンの橋の上」の歌でも有名な、アヴィニヨンを訪ねる
 アヴィニヨン Avignon 

フランス南東部、ボークリューズ県の県都。人口8万9000(1990)。

ローヌ川右岸にあり、河口から約70km上流、ローヌ川が河口にちかい

平原に入る地点にひらけた町で、商業・文化の中心地。

系譜上はガリア人の集落に由来するが、アヴィニヨンが歴史上の重要な

地位をえるのは、14世紀初頭である。

教皇のアヴィニヨン捕囚によって、1309年教皇庁がこの都市に移転され

教会大分裂の時代を含めて、100年以上にわたって所在した。

 当初、この土地はプロヴァンス伯の支配下にあったが、近在のコムタ・ブナサン

とともに1348年教皇庁が買収した。

歴代のアヴィニョン教皇によって都市は整備され、教皇庁関連の諸施設が立地する

におよんで、一躍ヨーロッパ・キリスト教の枢要の地に成長した。

それぞれベネディクトゥス12世およびクレメンス6世による、旧宮殿と新宮殿の

建設によって、1.5haにおよぶ巨大な教皇庁舎が完成した。旧宮殿は簡素に、

新宮殿は豪華に築かれたが、同時代にあっては、群を抜く大きさであった。

その建築物は、現在まで存続している。
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 都市アヴィニョンは、教皇の臨在と庁舎の建築によって、突如の繁栄をむかえた。

アビニョン教皇庁の確立期には、都市は2万人前後の人口をかかえ、

当時にあっては、驚異的な行政都市としての相貌を呈したと考えられる。
各地から訪れる御用商人、教会行政官、学者、陳情者そしてユダヤ人や異端、

遍歴芸人など、雑多な人びとがあふれ、経済的にも高揚した。

イタリアの愛国者が〈アビニョン捕囚〉と呼んだのは、このような都市アビニョンの

世俗的好況を妬み、音の響きにもあわせてバビロン Babylon になぞらえたのであった。

 1417年に、教皇庁はローマに完全復帰し、アビニョンは教皇庁管理下の

一地方都市に立ちもどった。

1791年、フランス国民公会が没収するまで、その状態は続く。
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かたわらを流れるローヌ川は急流であるため、橋はしばしば流失した。

伝説上1177年架設とされるサン・ベネゼ橋は中途で流失したまま、残骸を

現在にのこしているが、この橋はフランス民謡《アビニョンの橋》で

子どもたちが踊る橋として知られている。

アヴィニョンの橋

また、童謡『アヴィニョンの橋の上で』で知られるサン・ベネゼ橋も有名。

橋の上で輪になって踊ろうと歌われているが、実際は、踊れるほど安全な

橋ではない。渡ることさえ危険なときもあり、橋から転落し命を落とした

者さえいる。ローヌ川の度重なる氾濫により何度も橋が崩壊、その度に

修復を強いられ財政を圧迫した。17世紀には遂に修復を断念、

22あった橋脚のうち、現在は4つのみが残っている。

| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:15 | comments(16) | trackbacks(0) | pookmark |
エクス・アン・プロヴァンスでのお土産

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エクス・アン・プロヴァンスの画廊、画材店で買い求めた「闘牛の写真」

メインストリート沿いにあるおしゃれな店で思わず買った。

マタドールに迫る闘牛の迫力を感じられる実写真で魅せられた。

前にスペインのコルドバで闘牛をみたとき、スターマタドールが

闘牛のツノに突っかけられ重症をおったのを見ているだけに

この緊迫感は、写真から伝わってきた。

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しかし、日本に帰ってきてアルルの闘牛は、ポルトガル式であると聞いた。

スペイン式は最後には牛を殺してしまうのだが、

ポルトガル式は牛の頭に触るか印を付けるだけで、勝負が決まり、

決して殺戮はしないという。

審査員の得点が高いマタドールが優勝で、優勝者の最高の栄誉は、

ミス・アルルにキスをしてもらうのだそうだ

しゃれている・・・


闘牛の写真は、スペインで撮られたものかもしれないが、

でも好きな構図であるので気に入っている。

 
| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:11 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
泉と噴水の町エクス・アン・プロヴァンス いい街でした
エクス・アン・プロヴァンス

エクス・アン・プロヴァンスは、アルルからそれほど離れていない地にある

噴水の多い静かな街。印象派の巨匠ポール・セザンヌの故郷としても

よく知られている。
街の中心にあり、緑の美しいミラボー大通りは、この街から選出され、

フランス革命初期に活躍した地元の貴族ミラボー伯爵にちなんで名づけられた。

街はずれの丘の中腹には、セザンヌのアトリエがあり、郊外には、セザンヌが

好んで描いたサント・ヴィクトワール山が聳えている。

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エクスの名の由来は、水の多いこの地を統括した総督「セクスチウス」の名を冠して、

「アクエア・セクスティアエ」(セクスティウスの水)と呼ばれたことにある。
今も100以上の泉が町を潤し続けている。

ex1

ピーター・メイルのベストセラー「南仏プロヴァンスの12か月」で紹介され

有名になった所。入り組んだ道にお店やレストランがたくさん集まり、

プロヴァンス地方の中でも最も賑わいを見せる町です

shop

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主な見所
サン・ソーヴール大聖堂 5世紀から17世紀までのあらゆる建築様式が集合した大聖堂。
グラネ美術館 市立美術館。19世紀の風景画家グラネの作品を中心に

16〜20世紀のヨーロッパの画家の作品を納めている。セザンヌの油絵もある。
タピスリー美術館、 サント・マリー・マドレーヌ教会など多い。

| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
サンレミ・ドゥ・プロヴァンスやレ・ポー・プロヴァンスを巡る
このように自由に動き廻れるのは、車があればこそである。

今であれば、カーナビで楽なのだろうが、この時は、地図を片手に

気ままなドライブであった。

car 

これはニースからマルセイユまで1週間使ったレンタカー(シトロエンの小型)

 

サン・レミでは驚いたことがあった。

「ノストラダムスの大予言」のノストラダムスの記念館があった。

こんな小さな田舎町で彼は予言をしていたのだ!


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ノストラダムスの本名 1503-1566 はミシェル・ド・ノートルダム。

日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集を著した。
サン・レミ・ド・プロヴァンスで生まれ、アヴィニヨンの大学で学ぶ。
医学を学び学業途中でペストが猛威をふるう町にかけつけ治療に専念。
妻子をペストで失い、四十代半ばでサロン・ド・プロヴァンスで再婚し
三男三女を残して亡くなる。
ノストラダムスの住んでいた家がノストラダムス記念館となる。

 

 

加虐性的倒錯のサディズムの語源的元祖、マルキ・ド・サド

この町に住んでいた公爵であったのだそうだ。

 

何故このように美しい自然環境の中で、不可解な人物が現れたかわからない???

プロヴァンス 不思議な地域である・・・

| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
アルルで耳を切ったあとのゴッホは、サンレミで治療し、パリ郊外で自殺した

1889年、牧師の薦めに従い、サン・レミ・ド・プロヴァンスにある元修道院を

改装した静かで簡素なサン・ポール・ド・モゾール病院に転院。

鉄格子のはまった病室に暮らしながら、外に出ることを許されると

サン・レミの自然を眺め、「星月夜」「刈り取る人」「糸杉」「オリーブ林」

といった作品を描きながら、1年程過ごします。


この頃になるとゴッホの作品には、独特の≪うねり≫や≪よじれ≫

表れ、ゴッホのファンタジーが加わった、ミステリアスな風景が描かれる

ようになります。

 

1890年5月パリに戻り、弟 テオとその妻子と再会を果たします。

パリでは数日滞在し、35キロ北西にある静かな

田舎町オーベール・シュル・オワーズへ赴きます。

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ここで印象派の画家と親交の深い芸術好きなガシェ医師の指導を受け、

療養生活を始めます。
ここでもゴッホは毎日休みなく取り付かれたように絵筆を取り、

「カラスの群れ飛ぶ麦畑」「オーベールの教会」「ガシェ医師の肖像」など、

70日間で60枚を超える油絵を製作します。

gogh8

1890年7月27日、ゴッホは銃で自殺を図り
2日後に亡くなります。

37歳という若さで1890年7月29日、ゴッホはこの世を去ったのです。 
| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:19 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
南フランス・アルル市街の見逃せない場所
京都の紅葉を訪ねた為、南フランス プロヴァンスの話が途中になっていたので
続きを書いていきます。

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フランスの古都巡りは、このプティ・トラムが便利である。狭い坂道も縫うように走る。

ゴッホが暮らしたアルルの街 

ローヌ川の分岐点の河岸に位置し、その地名は、「湖(池、潟)の近く」を

意味するガロ・ローマン時代のアレラーテ (Arelate)に由来する。 

紀元前6世紀、ギリシャ人によって造られた。前123年に、ローマ帝国の

支配下に置かれ、重要拠点として街は拡大され、紀元前104年には運河の

建設によって地中海と結ばれ、現在よりも海が近かったことから、重要な港の

役割を果たした。

そして、プロヴァンス地方のローマ属領の中では屈指の大都市となり、交易、

商業の中心地として繁栄し、この時代に多くの巨大建築物が建造された。

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今もなお闘牛が行われる円形闘技場や劇場、地下回廊、また、プロヴァンスに

現存する最大の浴場跡や、郊外には大規模な墓地など、紀元前1世紀に遡る

ローマ時代の遺跡が数多く点在する。

4〜5世紀には、2度目の黄金期を迎え、ローマ皇帝が遠征する際に利用され、

395年には、ガリア地方とヒスパニア、ブリタニイまでを治める首都となった。

コンスタンティヌス1世が、この街を好み、「コンスタンティヌスの公衆浴場」など
多くの歴史的建造物も残っている。

レストランもおしゃれ
通りすがりに入ったお店おいしかったです。
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| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ゴッホとゴーギャンが生活したアルル黄色い家
ゴッホは“黄色い家”と呼んだ建物にアトリエを構えた。
彼はプロヴァンスに滞在した1年3ヶ月の間に200点を越す作品を描いた。
アルルにて描いた代表作に“夜のカフェテラス、ゴッホの寝室、


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ラングロワ橋(飛跳橋)、アルルの夜“など多くを描いた。

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残念ながら今は、二人が暮らした2階建ての黄色い家はない。写真がその場所である。

 

4階建ての建物の手前に、もう1軒ゴッホとゴーギャンが暮らした家が

あったと思われる。

| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:00 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
ゴッホがアルルに移り住んだ理由には、日本の浮世絵の影響があったのです
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パリ時代、ゴッホは印象派の画家達に出会い彼らの作品群に接して

強い衝撃を受けます。

さらに日本の浮世絵を知り、見たことも行ったことのない日本にあこがれ、

東洋の未知の国、日本の光りと、南仏の光りを重ね合わせました。

光りを求めて・・・

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そしてアルルに移り住み、出会ったのがひまわりの黄色、アルルの家々の壁を

彩る黄色、カフェの黄色、さらにゴッホの下宿の黄色だったのです。

彼の色彩はたしかにここ、アルルで花開いたのですね。

 

そういえば、ジュベルニーの印象派の画家モネの自宅に行ったとき、モネの部屋や

階段の壁いっぱいに日本の浮世絵が飾られていて驚いたことを思い出した。

浮世絵がフランスの印象派の画家達に与えた影響はたいへんなものだった。

 

日本の芸術 本当に、たいしたものだ!

| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:46 | comments(26) | trackbacks(0) | pookmark |
アルルの街のゴッホの描いた場所を訪ねる
 

アルル郊外に「Le Pont Van Gogh」と書かれたの見過ごしそうな看板がある。

その道を左に曲がると、「跳ね橋」があった。
思っていたより大きい!

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ゴッホが描いたオリジナルの橋は、第二次大戦で焼けてしまい

長く土台の石垣しか残っていませんでしたが、1962年にオリジナルの

場所の近くと思われるあたりに復活、1987年にゴッホの描いた同じ場所

であることが確認されています。


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また、アルルの街の北側にゴッホとゴーギャンが暮らした「黄色い家」がありました。

ただしこの建物も当時のままではなく変わってしまっていたが、黄色い家のあった

場所まで行ってみました。

ここで数ヶ月ゴーギャンと共に何点かの作品を描いておりますが、考え方が合わず

ゴーギャンは家を出て行き、ゴッホは悲嘆にくれ、耳を切り落としたのでした。

| 世界の旅・フランス・プロヴァンス | 07:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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