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知らなかった北園克衛の前衛アート
北園克衛 (きたその かつえ)
 1902−1978昭和時代詩人
明治35年10月29日生まれ。彫刻家橋本平八の弟。

西脇順三郎,滝口修造らとシュールレアリスム運動をおこし,昭和10年詩誌

VOU(バウ)」を創刊

戦後一貫してモダニズムの詩人として活躍した。昭和53年6月6日死去

75歳。伊勢市朝熊出身。中央大卒。本名は橋本健吉。

詩集に「白のアルバム」「火の菫(すみれ)」「真昼レモン」など。
格言など】秋はひとつのガラスである(「BLUE」)

kita1 

SUR UN PAROISSIEN
灰色の薔薇の世紀に狂ふ 恐愕せる空虚の猫
夢の王朝
水晶の園にめさめる美麗の姫を雲雀のやうに吊つて
私の宇宙は月と鏡と雲
天空にさわぐ空虚の人魚
孤独なる樹木の上の孤独の祈り
雪の動揺ら
この憂鬱の奴隷をやぶる山嶽の頂上にねぢれる嵐が 湖らの甚大な舞踏をめざましめる

 

「記号説」   北園克衛
     
白い食器 

スプウン
春の午後三時
白い
白い
赤い
     
プリズム建築
白い動物
空間
     
青い旗
林檎と貴婦人
白い風景
花と楽器
白い窓

     
貝殻と花環
スリッパの少女
金糸鳥の熟れる汽船のある肖像
     
温室の少年
遠い月
白い花
白い
(以下略)

 この克衛の詩について、詩人の黒田三郎の鑑賞文がある。

・・・この詩に何か深遠な意味を求めようとしても、それは全くの無駄である。

また、特別の鑑賞の仕方もない。読者は自由によみ、自由に反応すればいい。

読者が得た感覚から、何を想像しようと、勝手である。

 作者は、何らかの経験を表現しようとしているのではない。

逆に、作者が構成したことばから、読者が何か新鮮な経験を得ることを

期待しているのである。
 抽象絵画が流行し、ポスターやデパートの包紙まで、そういうデザインが

氾濫している今日では、誰でも、そう驚かずにこの詩がよめるのではなかろうか。
 しかし、この詩は三十五年前に刊行された詩集『白いアルバム』所収のものである。

 一読して誰でも感ずるのは、色彩の配合のさわやかさであろう。

『現代詩の鑑賞(草野心平篇)』(「教養文庫」・社会思想社刊)    

kita 

北園は、美的感覚も素晴らしく、本の装丁デザインも多く残している

ハヤカワミステリーのエラリークイーンをはじめ多くの文庫は北園の作品である。

「橋本平八と北園克衛展」

会期:2010年10月23日(土)〜2010年12月12日(日)

会場:世田谷美術館

| 橋本平八と北園克衛展 | 07:38 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
橋本平八の弟 前衛詩人北園克衛について

橋本平八の5歳年下の弟 北園克衛 (本名 橋本健吉)

1920年に上京。ダダなどから影響を受け、前衛詩の創作を始めた。

35年、詩の実験を推し進める「VOUクラブ」を結成し、機関誌『VOU』を

刊行した(死去した78年、160号で終刊)。

今回北園を研究しているアメリカのジョン・ソルト氏の所蔵資料の多くが

初公開されるなど、全体像が浮かび上がって見応え十分であった。


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兄・橋本平八の伝統的性格を帯びた木彫と、

弟・北園克衛の先鋭的な詩作やデザインは、対照的に見えます。

しかし、北園が「私に芸術を吹きこんだのはこの兄であった」と記したように、

二人の芸術世界は互いの交流を通じて形成されたと考えられます。

 

橋本平八については、近年の調査によって未公刊の手記や書簡、絵画作品等が

発見され、そうした調査研究の成果を活かした新たな作家像の提示が課題と

なっています。また、北園克衛については、在米の北園研究家が長年にわたって

収集した膨大な資料の調査と紹介が今回許可され、こうした資料を活用した

北園克衛の全体像紹介が可能になりました。
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故郷へ帰ったばかりの兄弟の写真と、その後の写真
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北園克衛(きたその かつえ)1902〜1978 前衛詩人

1902(明治35)年、橋本平八の5歳年下の弟として誕生。

新聞記者を志して上京。

生田春月の紹介で1923(大正12)年、「文章倶楽部」に詩を発表。

また未来派、立体派、表現派、ダダの影響を受け、

GE・GJMGJGAM・RRRR・GJMGEM」(ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム)を

創刊するなど前衛詩の分野で活動を開始。

1928(昭和3)年に「日本におけるシュルレアリズムの宣言」を

上田敏雄らと共同執筆。

1935(昭和10)年には、VOU倶楽部を結成して機関誌「VOU」を発行。

写真によるプラスティック・ポエム(造形詩)の制作、書籍装幀、

写真なども行い、1978(昭和53)年に77歳で亡くなるまで、

詩作と造形双方に及ぶ活動を展開した。

詩集は24冊(生前)出版しており、代表的なものに「白のアルバム」、

「夏の手紙」、「黒い火」、「家」がある。


「橋本平八と北園克衛展」

会期:2010年10月23日(土)〜2010年12月12日(日)

会場:世田谷美術館

 
| 橋本平八と北園克衛展 | 07:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
異色の芸術家兄弟「橋本平八と北園克衛展」を観にいく
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昨日10月23日(土)
橋本平八と北園克衛展」出展者として世田谷美術館に

ご招待を受け、オープニング・レセプションに出席してきました。

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最初に、
酒井忠康世田谷美術館館長よりご挨拶をいただきました。

「橋本平八に関する文献を調べるなか、平八の著書「純粋彫刻論」1942年を再読して

彼の思いも及ばぬ人間的な出会いや思想的な影響を知ることになった。

平八は新井奥遂や田中正造、高村光太郎、野口米次郎など信じられないほど幅広い
人脈を
持っていた。今もう一度、橋本平八を見直す必要があるだろう。

人間国宝 平櫛田中氏が、橋本平八を高く評価して美術館に作品を買い取り助けていた。」

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もう一方のご挨拶は

ジョン・ソルトJohn Solt(ハーバード大学 エドゥイン・O・ライシャワー日本研究所研究員)氏

であった。ソルト氏は北園克衛の世界一のコレクターであり、今回の北園の展示品

大部分は氏のコレクションなのだ。

なんと日本語でお話いただいた。

「1988年世田谷美術館にはじめて来た。今回の展示会で北園の仕事の幅は恐ろしく広く

この混沌から秩序建てるのは難しいのにとても素晴らしく展示されている。

これは、世田谷美術館のスタッフの素晴らしい腕だ。

世界的にみても橋本平八と北園克衛の芸術的意味は高く評価できる。ロサンゼルスから

学芸員が飛んでくる。インターネットでも北園の詩が世界の多くの言葉で翻訳されている。」

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毛利伊知郎(三重県立美術館副館長)氏もいらっしゃっていたが、お話はなかった。

橋本平八の研究第一人者であるので、橋本平八のことを聞きたかったので残念である。

そのあと展示をゆっくり観て、レストランで軽い食事と飲み物をいただいた。

 

展示セクションは思った以上に多くの作品が集められ、見ごたえ充分であった。

38歳で死去した橋本平八であるので残されている作品も限られ、今回は特に初出品された

作品も多いそうだ。毛利氏の尽力の賜物だろう。

こうして一堂に揃うと、橋本平八の彫刻の力量がはっきり分かる。これほど素晴らしい

芸術家だったとは驚きであった。

加えて弟の北園克衛の影響も非常に大きかったと思う。

この意味で2人を同時に展示するという今回の企画は大成功であろう。

しかし、なぜマスコミとタイアップしなかったのだろうか?

NHKや新聞社が協賛することで、PR効果が図れ、多くの人に興味を

もっていただけるのに・・・・
| 橋本平八と北園克衛展 | 08:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
昨日より世田谷美術館で開催された「橋本平八と北園克衛展」について
橋本平八と北園克衛の兄弟は「異色の芸術家兄弟」と副題がつけられているように

伊勢市出身の1920年当時、高い評価を受けた芸術家でした。

弟の北園は、「VOU」というモダーンな機関紙を出し

前衛詩人として注目を浴びていました。

まったく異なる二人の芸術作品が、不思議に調和をみせる今回の展示会

「橋本平八と北園克衛展」

大変面白く楽しめました。

 

もちろん今回私の父の所有する2作が出品されている橋本平八にはやはり、

特に思い入れがあります。

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橋本平八は、佐藤朝山の技術的な厳格さをうけつぎつつ、

近代性を加味した個性的な木彫を制作した。

それらは、高村光太郎や荻原守衛によってもたらされた、

造形性を強くうちだした洋風彫塑とはことなり、

 

円空仏に影響されたように、

木という素材と土俗的な精神性を意識したものであった。

 

ヨーロッパの彫刻を受容した日本の近代彫刻の歴史の中では

異端の位置にあるが、日本の近代彫刻の独自性をひきだした点で

高く評価されているのだ。
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写真は伊勢の神宮徴古館にて開催されたときのもの

| 橋本平八と北園克衛展 | 07:12 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
明日10月23日より世田谷美術館にて「橋本平八と北園克衛展」が開催される

明日から世田谷美術館で開催の「橋本平八と北園克衛展」に

出品されている橋本平八の作品のうち2点は、私の父のコレクションである。


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明日レセプションがあり招待されているので出かけることにしているが、

我が家の橋本平八の作品は、多分一番大きいサイズなのでわかりやすいとおもいます。


写真の「達磨立像」73cm
と、達磨太子を描いた掛け軸の2点です。


彫刻家「橋本平八」については、知らない方が多いと思うが

1920年代に、ロダンや高村光雲とは異なる世界を表現する彫刻を発表していた。

 その彫刻は実に多彩。作風を一言で形容できないのが特徴といえようか。

例えば、自然の石を写実的に表しながら不思議なオーラを放つ「石に就て」とか、

柔らかな曲線美の天女の全身に細い線で桜の花が彫られた「花園に遊ぶ天女」。

創作時期は2年しか違わないのに、同じ作者とは思えない。


 
毛利伊知郎・三重県立美術館学芸員は「仏教と神道、そして朝熊の自然が合体した
ような
複合的な宗教観が、創作の動機となった。さらに東西の哲学や芸術思想も

反映している」と説明する。

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弟の北園は兄を追い、1920年に上京。ダダなどから影響を受け、前衛詩の創作を

始めた。1935年、詩の実験を推し進める「VOUクラブ」を結成し、

機関誌『VOU』を刊行した(死去した78年、160号で終刊)。


「橋本平八」

1897年、現在の三重県伊勢市朝熊町に生まれる。

1919年に上京、佐藤朝山や三宅正直に師事し、彫刻を学んだ。

1922年に日本美術院展に出品して初入選、1927年に同展の同人となった。

ほかに再興院展、聖徳太子奉賛展などにも出品。

橋本の作風は、西洋美術と東洋美術を独自に融合させた作風とされる。

橋本の故郷は伊勢神宮の近くで、神仏を尊ぶ価値観や仏教彫刻に触れ、

自身でも仏像などを多く製作するなど少なからぬ影響を受けていた。

一方で弟の北園克衛を通じて、シュルレアリスムなどの西洋美術なども研究していた。

28歳で故郷の三重に戻ったが、その後も製作活動を行い、院展などに出品をつづけた。

しかし1935年、38歳で早世した。

「橋本平八と北園克衛展」

会期:2010年10月23日(土)〜2010年12月12日(日)

会場:世田谷美術館

| 橋本平八と北園克衛展 | 07:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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