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開成館長崎出張所(長崎商会)の主任として岩崎弥太郎は、金策に奔走し、
蒸気船や武器を買いまくり、樟脳(しょうのう)など土佐の物産を売った。
時代とともに舞台は変わる。横浜港や神戸港が開港したことにより長崎は
独占的な対外窓口ではなくなった。
外商たちは横浜や神戸・大坂に移っていく。しかし、岩崎弥太郎は長崎商会や海援隊の
残務整理の毎日。かつての志士たちは、東京や大坂で仕官の道を得て行く。
明治2 (1869 )年、弥太郎は開成館大阪出張所(大阪商会)に異動、責任者に抜擢された。
長崎での経験を活かし、商船隊を率い、外国商館との取引や大阪商人との売買に実力を
発揮し、藩の財政に貢献するのだ。
同年閏(うるう)10 月、土佐藩士たちにより、九十九(つくも)商会が設立された。
九十九は土佐湾の別名に因(ちな)む。海援隊で操船経験のある土居市太郎と、
長崎商会で貿易実務を経験している中川亀之助の二人が代表になった。
藩の立場から事業を監督するのが彌太郎だった。
藩船3 隻も九十九商会に払い下げられた。
主たる事業は汽船廻漕(かいそう)業、すなわち海運だ。
成り上りの弥太郎が大阪で取り仕切るのを嫌う者が土佐には多かった。
石川は彌太郎の世界観に共鳴し、九十九商会に入ることになった。
横浜の日本郵船歴史資料館に大きな鉄製の天水桶がある。
火災に備えて九十九商会の店先に明治3 年に設置された。「九十九商社」の文字と、
中心の小さな円から三方にひょろ長い菱形が伸びる船旗号(せんきごう)
(スリーダイヤの原型)がついている。まさに三菱の原点を示すモニュメントである。
三菱の事業の源流は九十九商会にある。したがって、三菱の創業の年は
九十九商会発足の明治3年である。
しかし、弥太郎はその時は藩の責任者として監督する立場だった。
今度は実業家として自ら経営に参画する。
九十九商会は、藩船3隻の払下げを受け貨客の運航にあたる一方、
鴻池や銭屋など豪商たちに抑えられていた西長堀の蔵屋敷を買い戻すなど、
民間企業らしい活力ある活動を展開していった。
九十九商会は明治5年に三川(みつかわ)商会と社名変更した。
岩崎とは名乗らず、あえて経営幹部である川田、石川、中川亀之助の
川の字にちなんで命名したという。
同じ年、新橋—横浜間に初めて汽車が走った。帝都の人々は興奮したが、
わが国の物流の根幹はまだまだ海運だった。
岩崎弥太郎、「三菱」の社長となる
弥太郎は激しい気性の男だった。三川商会の幹部たちは常に弥太郎の顔色を
伺っていた。弥太郎の頭にある事業のイメージは、なにものをも恐れぬ攻撃的なものだ。
ついに石川七財や川田小一郎らとの話し合いの後、
「ええい、まだるっこしい。これからはすべてわしが決断する」と宣言した。
明治6年3月、新たな出発である。岩崎弥太郎独裁体制。
社名も船旗の三つの菱形にちなんで「三菱商会」と改称した。
岩崎弥太郎本人の写真少し痩せれば「龍馬伝」香川さんに似ていると思う。
本日の「龍馬伝」の出だしに見たことのある建物が・・・
岩崎弥太郎が新聞記者に話す場面だが、
そうです、そこは今も残る「旧岩崎邸庭園」です。
東京上野、不忍池近くにそのまま
保存されている建物で、昨年12月6日に私も訪れています。
旧岩崎邸は1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられました。
英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、
現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。
木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で
近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。
館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に
多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を
漂わせています。
コンドル設計の撞球室(ビリヤード場)は、洋館から少し離れた位置に別棟として建つ。
ジャコビアン様式の洋館とは異なり、当時の日本では非常に珍しい
スイスの山小屋風の造りとなっている。
本館から地下通路で繋がっているのは、もしかすると抜け道で、逃げるための道なのか・・
三菱のマークの由来もここには書かれていた
外の高い塀を裏のほうに廻りこむと、そこに さだまさしさんの歌った「無縁坂」があった。