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「遣唐使」を再開したという記録がある。
今年、奈良1300年のイベントとして、奈良市が遣唐使船を造った。
その中国唐との取引にどの貨幣を使ったか考えると
宝飾品が消えた理由が見えてくる。
日本最初のお金「和銅開弥」では、何も買えません。
そうなんです、貿易の代価として大変貴重な「天然真珠」と
「翡翠の玉」、「金」、「銀」が使われたのです。
藤原氏の強大な権力で、日本中の宝飾品が集められ、
貿易にだけ使用されたとしたら、絶対に一般の人たちに
これらのジュエリーやレアメタルは手に入らないのです。
そして、そのまま宝飾品は忘れ去られていったのです。
ほんの一部刀の柄や、簪(かんざし)の技術で残るのみ。
そして、明治維新に鹿鳴館の文化の中、ようやく日本の宝飾文化が
復活していったのです。
1000年以上の空白時代を経て・・・・
現代の日本の宝飾製造のレベルは、1000年の空白を越え完全に世界に追いつき
素晴らしい作品を作り出しているのです。
宝飾品が、消え去った時期を推察すると
ちょうど阿修羅像が出来た頃からであろうと思われる。
阿修羅像は、光明皇后が、亡き母 橘三千代を偲んで造営した
奈良「興福寺」の西京堂に、八部神の1つとして造られたものである。
光明皇后の父は、藤原不比等である。
藤原不比等は、藤原鎌足の子供であり、
強大な権力を持っていた藤原一族である。
当時日本で生み出される宝飾品は、まず天然真珠である。
次に翡翠であり、さらに金、銀があった。
当然この時期に伊勢で天然真珠が産出していた記録がある。
また、翡翠の勾玉が出雲で造られていたことも判っている。
(ただし、最近まで翡翠の原石は、アジアより輸入されたと思われていた)
出雲には今でも玉造の地名が残っている。
では、これらの宝物は、どこに行ってしまったのだろうか?
ここに宝飾文化が消え去ったヒントがある。
日本の宝飾の歴史で、私がいつも不思議におもうことは、日本の宝飾文化が
天平、奈良時代以降、消え去ったことなのです。
平安、鎌倉、室町、江戸時代には、宝飾品が消えてしまったのです。
武家社会には、宝飾品がまったくないのである!
縄文、弥生時代には、勾玉やブレスレットや、アンクレットまで使われていたのに・・・・
実際たくさん発掘されている。
阿修羅も、素晴らしい宝飾品を身に纏っていた。
これは、どうしてなのだろうか?
もしかすると、天皇家、藤原氏の権力関係にも何かあるのかもしれない。
先月末まで阿修羅の宝飾品が護符(お守り)だったとブログに書きました。
宝飾業界に所属している男性として、やはり、何か宝飾品を身につけるべきだと
思っていましたが、時計以外なかなかつけられずにいました。
あるとき、ゲーフレーヤー(フランス)の金のブレスレットを買い、腕につけるようにしました。
思い切りキザですが、仕事として割り切り、腕につけ始めました。
車を運転するときは必ずつけていないと落ち着きません。
これを外して運転していた時、不思議に2度事故に合いました。
今まで、40年以上の運転暦で3度の事故を経験していますが
最初の事故はジュエリー(ブレスレット)を身に着ける前のこと
ジュエリーをつけるようになって2度とも、たまたまブレスレットを
つけ忘れたときに事故にあいました。
1度は、赤信号で止まっていたら、坂道を無人の駐車していた車が
下り降りてきてサイドドアにぶつかった(運転手がサイドブレーキをしていなかった)
もう1度は、細い道で横から自転車が飛び出してきてサイドにぶつかった。
(これも不可抗力)
両方とも、「あれブレスレットを付け忘れた」と意識していた。
自分で追突するなどでなく、不可抗力の事故が2度もあると
この金のブレスレットが離せなくなった。
ここにおいて、私にとってジュエリーがお守り(護符)となったのです。
同じことが昔、ダイヤモンドやルビーのような宝石を
戦争に出陣する王侯貴族がつけたことも共通するのです。
硬さの象徴であるダイヤなどの宝石をつけて戦場に出て、
無事生還できたことで、それが大切なお守りとなったのです。
すなわちヨーロッパにおいても男性の装飾品として宝石や金、銀が
使われる(お守りとして)ことになっていったのです。
日曜は時計を忘れますが、お守りのジュエリーは着けております。
そこには、天平時代にすでに遠いヨーロッパ(ペルシャ)文明の影響を
百済を通して受けていたことを物語っているのです。
宝飾品には、護符(お守り)の役目があったのだ。
仏教における最高神お釈迦様(仏陀)は、宝飾品など何も着けておりません。
しかし、釈迦(仏陀)への修業を続ける菩薩は、宝飾品を身に纏っているのです。
菩薩とは仏教で「自力で悟る人」の意味があり、「弥勒菩薩」「観音菩薩」「文殊菩薩」
「普賢菩薩」「地蔵菩薩」「虚空蔵菩薩」などさまざまな姿があります。
金の希少性と不変性が永遠の命を思い起こされ、それを身につけることで
装飾というより、身を護る(護符)としての働きを期待したのである。
しかし、悟りを開いた釈迦(仏陀)には、そんなものは必要なく
彼はその装飾をいっさい捨てて、仏陀になるのです。
だから釈迦の像では1枚の布だけをさらりとまといいっさいの
装飾をしていないのです。
仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とするのです。
この阿修羅像は、光明皇后が亡母橘三千代の追善のため天平6年(734年)
建立した興福寺西金堂に八部衆像の1体として安置されたのです。
材質は麻布を漆で貼り重ねた脱乾漆造である。
作者は、像造は朝鮮百済からの渡来人「将軍万福」、
彩色は「秦牛養 」が色付けしたとされる。
そうなんです、元の阿修羅の肌の色は、朱に塗られていたのです。(まさに赤鬼)
そして、宝飾品は金色に輝いていたのです。
八部衆を含む興福寺西金堂諸像については、法華経序品ではなく、
金光明最勝王経所説に基づく造像だと解釈されている。
藤原氏の氏寺であり、法相宗の大本山として知られる興福寺。
その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、
さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。
山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、
夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を
安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても
興福寺の別称として使われています。
その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、
その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって
阿修羅像の起源は、インド仏教をはるかにさかのぼり、西方ペルシャ起源である。
仏教の中で登場する阿修羅は、六道輪廻の世界にあって、天の神々に
日々戦いを挑む悪神の存在として描かれている。
鎧を着た阿修羅たちが、天の神々を下方から仰ぎ、無数の矢を天に向かって
放つことで神々と対抗する。ここでは、阿修羅の世界に住むものたちは、
嫉妬心がもとで、他のものとたえず競い、争い続ける存在として知られている。
しかし、この阿修羅の起源はそもそもペルシャの太陽神であって、
光の神がインドに到達したときに、はじめて天の神々の対抗者へと
姿を変えることになった。
修羅場(しゅらば)という言葉が今も使われる。非常に暴力的はことである。
このように元々荒ぶる神であったのだが、今、やさしいイメージに変身したのだ。
今若い人にも仏像がブームとなっており、特に興福寺の阿修羅像は
その象徴ともいえる仏像であります。
「仏像ガール」「アシュラー」と呼ばれるファンも大勢いるぐらいです。
なぜ人気があるかというと、まず、その神秘的な「お顔」からです。
モナリザにも匹敵する、安らぎの微笑みさえ感じさせる美少年であるからでしょう。
加えて三面六臂(さんめんろっぴ)の不可思議なお姿であること
(顔が3面、手が6本ある)
上半身裸で条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、裳(も)をまとい、
足には板金剛(いたこんごう)をはいています。
その不思議なお姿に人は魅せられるのです。
しかし、
彼が今から1300年前の天平時代にネックレスとブレスレットをしていた
ことが話題にのぼらないのは、何故だろう?
ネックレスを当時は胸飾り、
上腕のジュエリーを臂釧(ひせん)
そして、ブレスレットを腕釧(わんせん)と呼んでいた。
阿修羅は
このように素晴らしい宝飾品を1300年前に身につけていたのです。