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高知県立坂本龍馬記念館(高知市)は24日、坂本龍馬が砲術を学んだ流派の
起請文(誓約書)に、龍馬の直筆署名と血判が見つかったと発表した。
同館によると、現存する龍馬直筆の史料としては2番目に古く、血判が確認された
のは初めてなのだそうだ。
森健志郎館長は「龍馬の土佐での行動の一端を知る貴重な手掛かり」としている。
起請文は幅約20センチ、長さ約13.4メートルの巻物で、土佐藩で西洋砲術
「高島流砲術」を教えていた徳弘孝蔵(1807〜81年)が門下生に書かせたものと
みられる。流派の技術を外に漏らさないことを誓う文とともに、龍馬のほか、
武市半平太、岡田以蔵、龍馬の兄権平ら216人分の署名と書き判が記され、
坂本龍馬(さかもとりょうま)
天保6年11月15日(新暦1836年1月3日)-
慶応3年11月15日(新暦1867年12月10日))
土佐郷士に生まれ、土佐藩を脱藩したのち倒幕および明治維新に大きな影響を
与えた幕末の志士である。
諱(いみな)は、直陰(なおかげ)のちに直柔(なおなり)。
龍馬は通称。
坂本 龍馬 直陰
(苗字)(字・あざな)(諱・いみな) ということなのです。
他に 才谷梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある。
土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)の結成、
薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。
後に贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。
天保6年(1835年)11月15日 土佐の高知に生まれる。
そして 慶応3年(1867年)11月15日 京都にて死亡 数え 33歳
生まれも死亡も 11月15日であるが、実際は旧暦であるため
天保6年の11月15日は 新暦 1836年1月3日にあたり、
また、慶応3年の11月15日は、新暦 12月10日にあたる。
このあたりが旧暦の複雑なところである。
関係深かった人たちを実物の写真で紹介してみよう。
まず、本人坂本龍馬、革靴を履いている。
近江屋で暗殺された友人中岡慎太郎
妻のお龍さん
姉の乙女
師匠 勝海舟
岩崎弥太郎
高杉晋作
桂小五郎(木戸孝允)
トーマス・グラバー
西郷隆盛(写真嫌い)、武市半平太、久坂玄瑞の2人はまだ写真が日本に無かった。
身分に厳しい江戸時代に藩を越えた多くの実力者との交流は、龍馬でなければ
成しえなかったことであろう。
その横の繋がりが、天敵ともいわれた薩長連合を成しえ、さらには 大政奉還
として実を結び、将軍徳川慶喜まで動かして日本を変えていった。
「坂本龍馬」間違いなく日本の稀代の英雄であった。
龍馬を切ったのはだれか?
本日の「龍馬伝」最終回
龍馬を切った暗殺犯を今井信郎としていた。
歌舞伎俳優の市川亀治郎が演じた。
市川は、京都見廻組の与力頭・今井信郎役として、2007年の『風林火山』
以来となる大河ドラマ出演である。
私の調べた、龍馬暗殺犯は
京都見廻組 与頭 佐々木只三郎の指揮のもとに、
今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂準之助、土肥仲蔵、桜井大三郎
以上 7人で襲撃したのである。
「11月15日夜半 「近江屋」を訪ね案内を乞うと、藤吉が出てきた。
名札をわたすと「少々お待ちを」と二階へと取って返す。
今井は龍馬在宅間違いなしと見て藤吉に続いて階段を上がり
上がりきったところで藤吉を袈裟がけの一刀で切った。
そして、刀を納め、なにくわぬ顔で奥八畳のふすまをあけると、
火鉢を囲んで二人の男が話し込んでいた。
どちらが目指す坂本龍馬か分からず、とっさの機転で
「坂本先生お久しぶりです」と座ったままていないに挨拶した。
すると右手の男が顎を撫でながら
「ハテ、どなたでしたかなあ」と顔を向けたので、
これぞ龍馬にまちがいなしと、その前額を抜き打ちざまに真横に払った。
驚いた左側の男(中岡)が脇差をつかんで立ち上がろうとしたので、
抜く暇を与えず拝みうちに切り捨てた。
中岡は半抜きにした脇差をささげ持つような形で懸命に受けたが
ついに倒れる。
その間、龍馬は離れてい置いていた太刀を取ろうと後ろを向いたため
さらに背中に袈裟懸けに切られた。
さらに真向こうから打ち下ろされた三の太刀を辛うじて鞘ごと
受け留めたものの、相手の太刀はそれをそいで打ち込まれ倒れた。」
龍馬を切ったといわれる今井信郎は
直心影流 第十四世宗家榊原健吉の高弟で、二十歳で免許皆伝
この時 二十六歳。
まき割り稽古といわれるこの流派の荒稽古はすさまじく、
門人たちは防具をつけたまま、道場でゴロゴロころがっていたといわれる。
狭い部屋にこのようにすさまじい腕を持つ刺客に突然切り込まれ
頭を割られてしまったため、剣の達人の二人でもどうしょうもなかった
のであろう。
しかし、何故、京都見廻組が坂本龍馬を倒したのか???
それを命じたのが誰であるかを追及する必要があろう
今まで犯人すら判明していないということは不思議である
普通に考えると見廻組の組織の頂点である京都守護職 会津藩藩主
山内容保であろうかと推測できるのだが、この説が公でない。
この説なら隠す必要もない。
新政府の要人が龍馬暗殺を指示したのではないだろうかと私は思う。
本日11月15日 坂本龍馬の命日であるが、この日が誕生日でもある。
天保6年(1835年)11月15日 土佐の高知に生まれる。
そして 慶応3年(1867年)11月15日 京都にて死亡 数え 33歳
同じ11月15日であるが、実際は旧暦であるため
天保6年の11月15日は 新暦 1836年1月3日にあたり、
また、慶応3年の11月15日は、新暦 12月10日にあたる。
旧暦の計算は非常に難しく、毎年大きく違ってくる。
伊勢神宮の神宮暦(こよみ)が全国で待ち望まれたのは
毎年、大きく変動し、その暦で食物の種まきの時を決めたからである。
龍馬は通称。諱は直陰(なおかげ)のちに直柔(なおなり)。
晩年 才谷梅太郎(さいだに うめたろう)などの変名がある。
この 才谷は、元々 坂本家の本家が才谷屋という質屋、酒造、呉服商を
営んでいたからである。
また、33歳で死亡も、現在の満でいえば 31歳なのである。
若くしてこれだけのことを成し遂げた。やはり 天才なのだ。
今日の赤坂ランチは、坂本龍馬を偲んで
「土佐料理 祢保希(ねぼけ)」で鰹のたたきを食べてきた。
坂本龍馬の墓から見える京都の街
NHKの龍馬伝いよいよ龍馬の最終章に近づいてきました。
ちょうど私自身も来週末に京都に行くことになっている。
慶応3年11月15日夜、京都河原町通り蛸薬師の醤油商「近江屋新助」方の2階座敷で
陸援隊隊長 中岡新太郎と会っているところを7人の刺客によって襲われ殺害された。
坂本龍馬は全身34ヶ所、中岡新太郎には28ヶ所の刀傷があった。
犯人は「京都見廻組」であるとされている。
坂本龍馬は故郷土佐ではなく、京都の東山に眠っているのです。
東山「高台寺」の上の山にお墓があります。そしてそこへ登っていくには
維新の道と呼ばれる古い街道を通っていく。
ねねの道沿いに大鳥居がある。ここを山の方向に上がっていく
この坂を上りきったところに、維新の志士たちを祀った京都護国神社、
幕末史を専門に扱う霊山歴史館、霊山を勤王の志士たちの聖地とした
霊明神社がある。
坂の途中に翠紅館(すいこうかん)跡の立派な門がある。
勤王の志士が密会をした所。
翠紅館は、幕末の頃、西本願寺の別邸であり、土佐藩、長州藩、
久留米藩らの志士が出入りし、会合を重ねていたという。
集まっていた志士の中には、土佐藩・武市半平太、長州藩・井上聞多、
今も「京大和」という料亭として残されている京都のすごさを感じる。
坂本龍馬を暗殺する実行犯を歌舞伎俳優の市川亀治郎が演じる。
市川は、京都見廻組の与力頭・今井信郎役として、2007年の『風林火山』
以来となる大河ドラマ出演。
注目されていた暗殺者役の撮影を終え「まさか自分がお話をいただけるとは
思ってもいませんでしたので驚きました。憧れのマシャ兄(福山)とご一緒できた
ことを大変嬉しく、また誇りに思っています」と心境を語った。
市川は、従弟にあたり岩崎弥太郎役を務める香川照之とも初共演を果たし、
「忘れられない大切な作品となりました」と感無量の様子だ。
実際は誰が龍馬を切ったかは証明されていないが、龍馬殺害の実行犯であると
告白したのが与力頭・今井信郎だった。
その配役に鈴木圭チーフプロデューサーは「龍馬伝らしいキャスティングを貫きたい」
とこだわっていた。暗殺の実行犯・今井信郎を、善悪を超えた存在、
“誇り高きラストサムライ”」と前置きした上で「市川亀治郎さんは、滅んでいく
武士の哀しみと品格を見事に体現してくださいました」と出来に自信をのぞかせる。
北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と陸援隊 隊長の剣客中岡慎太郎の二人を
切り捨てたということは、恐ろしいまでの剣の使い手でなければ無理である。
与力頭の今井信郎が本当に暗殺犯であったかはいまだにはっきりしていない。
極端な例は、中岡慎太郎が龍馬を切ったという説もあるほどだ。
というのは坂本龍馬が一太刀で頭を割られているが、よほど油断していないと
龍馬ほどの腕を持つ侍を切ることは不可能だからだ。
龍馬も太刀をうけたが、反撃して同士討ちになって二人とも命を落としたと・・・・
長崎市歴史民俗資料館は7月27日、坂本龍馬が海援隊で運用した
西洋式蒸気船「いろは丸」を描いたとみられる絵画を確認したと発表した。
同船と推定される絵が見つかったのは初めて。
同資料館が現在展示している、
江戸末期の長崎港の艦船を記録した「白帆注進外国船出入注進」
(財団法人鍋島報效会所蔵)の中で、確認した。
資料では「いろは丸」と明記されていないが、赤地に白の蛇の目の家紋が
所有者だった大洲藩(現愛媛県大洲市)のものであることや、資料に残された
沈没した「いろは丸」とは?
慶応3年4月23日(1867年5月26日)23時頃、海援隊の武器などを積載した
「いろは丸」と紀州藩の軍艦・「明光丸」が現在の広島県福山市鞆の浦沖の
六島付近で衝突した。
いろは丸は大破し自力航行不能となって、鞆港へ曳航される途中に宇治島沖で
沈没した。搭乗していた龍馬と海援隊は鞆の浦に上陸し、龍馬は廻船問屋の
升屋清右衛門宅で数日間身を潜めた。
なお龍馬らは武器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいた
と主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ事件の原因を追及、
紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの龍馬は万国公法を持ち出し
紀州藩側の過失を追求、さらには民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌を
流行らせ、
事故から1ヶ月後に紀州藩が折れ8万3526両198文を弁償したとされている。
これは、坂本龍馬一流のふっかけで事故の補償金で稼いだのだ。
坂本龍馬年表最後のページ
1866年 慶応2年 32歳
1月21日 薩長同盟成立
1月23日 伏見寺田屋で奉行所役人に襲撃される
3月5日 西郷らの勧めで、腕の傷の温泉治療を兼ねお龍と共に鹿児島へ出立
(日本人初の新婚旅行といわれている)
7月20日 将軍家茂死去
12月25日 孝明天皇死去
1867年 慶応3年 33歳
1月12日 長崎清風亭にて、溝渕の仲立ちで土佐藩参政後藤象二郎と会見
4月 亀山社中を改組して「海援隊」と称し、海援隊長となる
4月23日 瀬戸内海で紀州藩船明光丸といろは丸が衝突し、いろは丸沈没
5月29日 いろは丸事件の賠償金問題が解決
6月9日 夕顔艦で後藤と共に長崎を発し上京。「船中八策」を提案する
6月22日 薩土盟約成立(慎太郎と共に立ち会う)
10月14日 慶喜が大政奉還を上奏。この日薩長両藩に討幕の密勅が下る
11月15日 近江屋で中岡慎太郎と共に襲撃を受ける龍馬は即死
30歳からの4年間は、まさに人の何十倍にも渡る仕事を成し遂げたといえよう
京都、江戸、長崎、鹿児島と交通事情がわるい幕末に日本中を動き回り
(歩いた距離は地球1周するほどだった。4万km以上)
各藩の要人と折衝を行い、問題を解決していった。
まさに生き急ぎだった。(数え33歳、満31歳での没である)
1865年(慶応元年)5月
西郷の家に坂本龍馬が泊まった時のエピソード
ある日、龍馬が西郷の夫人に「一番古いふんどしを貸してくださらぬか」と所望した。
夫人は言われるがままに古ふんどしを与え、その事を西郷に報告すると、
西郷は烈火のごとく怒って言った。
「日本国のために命を捨てようという人だと知らないか。
すぐに一番新しいのと代えて差し上げろ」と。
西郷があんなに怒ったのは後にも先にもあの一度だけだったと
西郷夫人の述壊である
西郷が龍馬をいかに高く評価していたかの証明である。
ところで、龍馬伝の西郷吉之助役が高橋克美さんであったが
残念ながらイメージが違う。
もう少し大男で厳つい印象が西郷どんにはある。
うまい俳優であるが、残念ながら高橋さんは優しすぎる・・・・
実際、西郷隆盛は1枚も写真を残していないのだ。
上野の西郷さんの銅像は、高村光雲作であるが、奥さんの糸子さんが
「夫は、こんな人じゃない」と言った話が残っている。
もう1つ鹿児島の城山公園の西郷さんの銅像
この西郷さんの銅像のモデルは、前にも書きましたが
私の義理の祖父が、彫刻家安藤氏に乞われて、
本物の西郷隆盛の軍服を着て帯刀し、安藤 照氏のアトリエで写真を撮り、
それをイメージに安藤氏が8年かけて製作した。
下は本家鹿児島の南日本新聞の1面に掲載された記事
安藤 照氏のアトリエにて祖父
鹿児島・城山公園に立つ西郷隆盛像
銅像本体の高さは5.76m、台石を含むと約8m、
路面からの高さは14mあるとのこと。
西郷隆盛像は、渋谷の「忠犬ハチ公」の製作者でもある彫刻家・安藤照氏が
8年をかけ製作、昭和12年(1937年)銅像が完成したのです。
そして、龍馬、薩摩藩西郷吉之助と会う。
NHKのホームページ表記によると
「1865年龍馬、西郷隆盛と会う」と記されているが、
実際の歴史は1864年に坂本龍馬と西郷吉之助の面会が実現している。
また、「龍馬伝」では海軍訓練所閉鎖後に西郷と会っていたが
それ以前に面会していて、閉鎖後西郷の薩摩藩の庇護を受けるのである。
まさにこの数年が、坂本龍馬が本当に力量を発揮していったのである。
この時龍馬30歳、暗殺されたのが、33歳である。
この4年間に、坂本龍馬の一生が凝縮されている重要な時期といえるのである。
この重要な4年間を年表に整理してみたい。まず2年間をまとめると
1864年(元治元年) この年、龍馬30歳(数え)
5月、幕府の「神戸海軍操練所」が完成し入所
6月5日「池田屋の変」で同士の多くを失う
8月 勝海舟の使いで薩摩藩 西郷吉之助と面会
10月 勝海舟軍艦奉行解任、神戸村海軍操練所閉鎖
海軍が欲しい薩摩藩が海軍操練所を庇護
龍馬と西郷の繋がりがここからスタート。
1865年(慶応元年) 龍馬31歳
5月1日 鹿児島西郷宅に逗留
5月19日 再び熊本の横井小楠を訪う
5月24日 太宰府延寿王院で三条実美に謁見
閏5月6日 桂小五郎(木戸孝允)と面会する
閏5月11日 武市半平太切腹
閏5月 薩摩藩の援助を得て、亀山社中を設立
6月24日 京都薩摩藩邸に入り西郷と会見。薩摩藩名義で長州藩に
武器購入する事を承諾させる
「龍馬伝」では、岡田以蔵をフューチャーするがために、この部分を膨れ上がらせて
いるようだ。武市半平太が切腹したのは、この翌年1865年の閏5月のことである。
海軍訓練所の閉鎖が 1864年10月であるから、岡田以蔵は、あれほど拷問されて
翌年の10月まで生き延びていたのだろうか??
どうも、
「龍馬伝」の脚本の時代背景が1864年と1865年がいっしょになっているようだ。