一定期間更新がないため広告を表示しています
西郷隆盛は、大の写真嫌いで、1枚も写真が残っていない。
それで、銅像を造ることが非常に困難だったのである。
高村光雲作の上野の西郷さんの銅像を観て、妻の糸子が「夫は、こんな人じゃない」と
言ったという話が残っている。
これでは製作者の高村光雲もたまったものじゃないだろう。
私の祖父がモデルとなった「鹿児島城山公園の西郷隆盛像」(安藤照 作)についても
いろいろいわれていた。
作家の海音寺潮五郎は、著書『西郷隆盛』にて次のように述べている。
「これはぼくだけの見当だが、安藤は西郷の孫にあたる西郷隆治さんをモデルにし、
それを彼の主観でアレンジして造形したのではないかと思っている。
安藤は鹿児島二中の出身であるが、隆治さんも二中の出身だ。大体同じころに
在学している見当でもある。隆治さんは西郷が奄美大島る流謫中にめとった島の
娘アイカナの産んだ菊次郎の子で、西郷に最もよく似ているといわれている人である。
(中略)ともあれ、安藤のつくった銅像は隆治さんによく似ている」
2008年12月30日の南日本新聞記事によると、西郷のモデルは、
元・山形県議の男性であることが判明。
安藤のアトリエで撮影された、銅像のひな型や肖像画などが写り込んだ
モノクロ写真が、男性の遺族宅で発見されたという。
遺族は「(祖父の)目は隆治さんに似ていると思う」とも述べている。
南日本新聞第1面 2008年12月30日
この遺族というのは、私の義理の兄である。
9月13日(日)の法事で祖父の写真もあったが、確かに西郷さんに似た
雰囲気を持っている。
慶応出、県会議員、昭和の初め山形で3台目の自家用車を持っていたというから
当時としては、ハイカラな存在だったと思われる。
偶然であるが、名前が私と同じであった。(大学も同じ)
家は、代々神道で祖先の墓は、山形の実家に程近い丘陵にあり、
天童の神社の宮司様に来ていただき親戚だけで執り行いました。
法事の席で2月にテレビ朝日の取材を受けた義理の兄から
「今の渋谷の忠犬ハチ公」は、2代目であり、初代の安藤照が製作した像は
戦時中に供出されてしまい、息子の 安藤 士が1948年に造ったものだと
聞かされた。
ずっと安藤 照 作であると思っていたのでちょっと驚きであった。
祖父がモデルとなった鹿児島の西郷さんの像が、
忠犬ハチ公の作者安藤照と説明しずらくなった。
調べてみると
ハチの銅像は第二次世界大戦中に金属資源不足により供出され、
終戦前日である1945年8月14日に鉄道省浜松工機部で溶かされ
機関車の部品となって東海道線を走った。
現在のものは安藤照の息子で彫刻家の安藤士が制作し、1948年8月に
再建されたものである。ハチ公美談は戦前に海外にも紹介され知られており、
戦後日本の占領に当たった連合国軍の中でハチ公の銅像の行方を知った
愛犬家が勇志を募り、再建の有形無形の力となった。
再建時の除幕式には、連合国各軍の代表が参列した。
駅前に像のあるJR東日本渋谷駅の改札口の一つは「ハチ公口」と
名前がついている。再建当時は駅前広場の中央に鎮座し北を向いていたが、
1989年5月に駅前広場が拡張された際に場所移動し、
同時に東(ハチ公口方向)向きに修正された。
安藤 照 作の「忠犬ハチ公」は、蒸気機関車になっていたのだ・・・
銅像の作者は、安藤照氏
鹿児島出身で帝展(日展の前身)の審査員をつとめる彫刻界の重鎮です。
ハチ公の銅像の完成は1934年でした。
1934年4月21日、渋谷駅前に銅像が建てられ、除幕式にはハチ自身も出席した。
これは、彫塑家の安藤照がハチ公像を作っている最中に、ハチのことを託されたと
称する老人が現れ、ハチ公像を建てるために絵葉書を売り始めたからである。
そのため、それより先に銅像を作らなければならなくなり、ハチが生きているうちに
銅像が建てられたのである。
ハチはその翌年1935年渋谷川に架かる稲荷橋付近の路地で死亡した。
主人の死亡から10年も待ち続けたわけだ。
実際のお話は
ハチは1924年から東京帝国大学(現・東京大学)農学部の教授、上野英三郎氏に
飼われることになった。ハチの生まれ故郷は秋田県大館市でした。
上野教授の存命中は、玄関先や門の前で見送り、時には最寄駅である渋谷駅まで
送り迎えすることもあった。
1925年5月に上野教授が急逝した後も、毎日渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けたとされ、
東京朝日新聞の記事により世間一般に知れ渡った。
たった1年半の上野教授との楽しい時期を忘れず
主人を慕うハチの一途な姿は人々に感銘を与え、「忠犬」と呼ばれるようになった。
実際は待ち合わせの場所として有名でした。
今回の映画「HACHI/約束の犬」によって、世界的に著名な犬となることでしょう。
ハチの銅像も注目されます。
銅像の作者「安藤 照」さんとは、祖父が関係あり、実際祖父がモデルとなって
造られた銅像が今も残っております。
安藤 照氏のアトリエにて祖父
それは、鹿児島・城山公園に立つ「西郷隆盛」の像です。
銅像本体の高さは5.76m、台石を含むと約8m、
路面からの高さは14mあるとのこと。
西郷隆盛像は、渋谷の「忠犬ハチ公」の製作者でもある彫刻家・安藤照氏が
8年をかけ製作、昭和12年(1937年)銅像が完成したのです。
ハチ公の銅像とほぼ同時に製作にかかっていたので、祖父は、安藤氏のアトリエで
ハチ公を実際に見たかもしれません。
(これは上野の西郷さん)
今週2月3日(火)テレビ朝日の「スーパーモーニング」にて
義理の祖父が鹿児島・城山公園の西郷隆盛像のモデルであったことが
取材され番組になることを書きました。
その内容をテレビからの写真でご紹介します。
放映時間は、3日 8:50から9:00までの10分間。
若一光司(作家)さんの説明で、コメントは大澤弁護士と室井佑月さんでした。
「追跡! ミステリーツアー」
西郷の“本当の顔”モデル写真発見
と題した番組仕立てとなっていました。
何故今になって西郷さんの顔かといいますと、
西郷さんが大の写真嫌いで、本当の顔は、イメージの絵しかないのでした。
それも親戚の顔をモンタージュで合成したものだったそうです。
上野の森の西郷さん(高村光雲作)の銅像は、西郷さんの奥さんが
「これは、私の夫の顔ではない!」と言ったことが伝えられており
本家鹿児島では、絶対によく似ている像を作ることが命題であった。
依頼をうけた彫刻家の「安藤照」氏は、10年かけて約10mの
銅像を造りあげた。
製作考案中に当時山形県議会議員であった祖父が、親戚が銅像を依頼していた
ため安藤氏のアトリエを訪れた。安藤氏のイメージの西郷さんと
結びついた。さっそく西郷隆盛の親戚にも合いよく似ているとのお墨付きを
いただいたのだそうだ。
それから、西郷さん本人の軍服を着てモデルとなり写真を撮った。
その写真は、本人と安藤氏の秘密にしていたが、祖父、父親も亡くなってしまった今
孫にあたる義兄が、インタビューを受けたのである。
いまさらながら、西郷さんの人気の高さを実感するものである。
明日2月3日(火) テレビ朝日(10ch)「やじうまプラス」 朝 4:30〜8:00に
取材された内容が放映されます。その時間がはっきりわかりませんのでお伝えできなく
申し訳ないのですが、偶然ご覧になったら、そのモデルが私の祖父であると
納得いただければ幸いです。
失礼しました 同日 8:00〜9:55の「スーパーモーニング」で放映されました。
朝のニュース番組と聞いて私の勘違いでした。
1月15日の私のブログに書きました、12月30日の南日本新聞 1面記事によってだと
思いますが、鹿児島の記事が全国区で放送されます。
なぜ、いまさらとも思いますでしょう
西郷さんの人気の高さ、そして、西郷さんが写真嫌いで1枚も写真が残っていないため
多くある銅像の顔がみな違うことに原因があるのでしょう。
祖父がモデルとなったのは、鹿児島城山公園の西郷さんの銅像で
ハチ公の銅像の作者で有名な、安藤照 氏の作である。
南日本新聞(鹿児島)2008年12月30日第1面
前にご紹介した、祖父が鹿児島市城山公園の西郷隆盛像のモデルとなったことを
書きましたが、このことが 2009年1月10日の南日本新聞(鹿児島)のニュースに
書かれていましたのでご案内します。私の妻の祖父なのです。
南日本新聞(2009年1月10日)
鹿児島市城山町で70年にわたり、鹿児島市の街を見守ってきた
西郷隆盛銅像(安藤照作・1937年建立)の“真のモデル”といわれる山形県の
男性の写真が、仙台市の遺族宅で見つかった。
西郷隆盛が実際に着用した陸軍大将の軍服を東京・代々木にあった安藤の
アトリエで身につけた写真など17点で、モデルは元山形県議の
故・石澤宏太郎(こうたろう)さん。「安藤照」と書かれた名刺とともに保管されていた。
昨年鹿児島を訪ねたときブログに私の祖父の銅像と書きましたが、
この記事で西郷隆盛像が私の義理の祖父だの意味がおわかりいただけると思います。