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久しぶりに蹴上の「ウエスティン都ホテル京都」に宿泊
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ウエスティン都、数年前、桜の時期に観光で来て、宿泊して以来だ・・・

この「ウエスティン都ホテル」は京都の高台にあるため屋上から京都市内が一望できる。


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右手すぐ近くに南禅寺の山門が見える。

この山門は、石川五右衛門が、「絶景かな絶景かな・・」と京都市街地を見下ろしたと

して有名であるが、ウエスティンはさらに高いところにあるため超絶景です。

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  正面の山は比叡山

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金戒光明寺方面

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平安神宮大鳥居、京都市美術館

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朝食も京都らしく、味わい深かった

| 日本を旅する・京都 | 07:33 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
安部晴明よりすごい、冥土通いの井戸から魔界を行き来した小野篁

六道珍皇寺が建つ辺りはその昔 、阿弥陀ヶ峰山麓一帯(清水から今熊野辺りの

東山山麓)の鳥辺野(とりべの)呼ばれた東の葬送地へ続く道に面して建っていた

ことから”六道寺”とも呼ばれていた。

六道とは、仏家のいう地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界をいい、

死後、霊は必ずそのどこかに行くといわれる。

六道の辻は、その分岐点で冥土への入口といわれている。

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閻魔王宮の役人で第二の冥官だったと伝説をもつ小野篁(おのたかむら)

冥府へ通う井戸(入口)が寺に在ったためとされる。
小野篁はあの世とこの世とを行き来するのに、井戸を使った
といわれている。江戸時代の蘭田耕筆なる随筆には

小野篁は閤王の化身にして、常に冥府に往来し給ふといひて、

五候(今の松原通なり)の来に死の六道、上嵯峨に生の六道といふは、

出入の穴有し所なりと博ふ】とある。死の六道とは六道の辻のあたりを指し、

六道珍皇寺の井戸を使って、たかむらは冥界に入った。


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境内の閻魔堂には、閻魔大王と篁の木像が並んでいる。

 

小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の末裔で、父は小野岑守。

孫に三蹟の一人小野道風がいる。

また謎多い美貌の歌人小野小町も一族である。

青年時代、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたが、嵯峨天皇の言葉に触れて

発奮し学業に励んだとされる。弘仁13年(822年)文章生に補せられ、

大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下に叙せられた。

承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838年)に

正使藤原常嗣の専断に憤慨しいさかいを起こし、病気と称して乗船を拒否する。

さらに、「西道謡」という朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、

官位剥奪の上、隠岐への配流に処された。

のち承和7年(840年)2月許されて平安京に帰り・本位に復った。

その後も蔵人頭・左中弁と要職を歴任。陸奥国司時代の承和9年(842年)には、

竹駒神社を創建した。承和14年(847年)には参議として公卿に列した。

仁寿2年12月(853年1月)従三位に叙せられる。

 

死罪に等しい隠岐への流罪だったが、たった1年半で現職復帰したことも当時

魔力を使ったと思われた。

 
| 日本を旅する・京都 | 07:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
今回の京都で、もう1つの気になっていたお寺「六道珍皇寺」について

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六道珍皇寺
には、小野篁(おののたかむら)が冥界へ通ったという井戸がある。

篁はこの井戸から毎晩、閻魔の庁へ出かけ、裁判を手伝っていたと言われている。

そして、嵯峨の清涼寺横の薬師寺境内の井戸(生の六道)から、この世に戻って

来ていたという。
六道珍皇寺、今は祇園にも近い賑やかな場所なのだが

かつて鳥辺野の葬場の入口にあり、小野篁が冥土通いをしたところで

「六道の辻」と称される。

お盆には、祖先の霊を迎えに参拝する六道まいりが行われる


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| 日本を旅する・京都 | 07:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
何度も東福寺は訪れていたが今回初めて「御寺(みてら)泉涌寺」にお参りした
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泉涌寺 (せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内(やまのうち)町にある

真言宗泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。

本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。

天長年間、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、

後に仙遊寺と改名された。

実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の

月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。

東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、

鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に

至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として

「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。

その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた

この泉は今も枯れることなく涌き続けている。
東福寺から近いのかと思ったので徒歩で向かった。山門まではそうかからなかった。

しかし、山門から参道がおそろしく長い、加えて登り坂だった。

大寺院であることが、この参道で理解できた。

 

泉涌寺概略
東山三十六峯の一嶺、月輪山の麓にたたずむ泉涌寺。

皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、

幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。
総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、

奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、

光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする

霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。

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仏殿
当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ

以降建立のものである。
大門から参道を下って正面の仏殿は、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱に

よって再建され、現在伽藍の多くはこの時整備されている。
仏殿は一重もこし付入母屋造り本瓦葺き、唐様建築の代表作で、

国の重要文化財である。


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 楊貴妃観音堂
大門を入って左手奥の堂内、六羅漢像の中央に安置される聖観音像(重文)で

湛海律師が寛喜2年(1230)月蓋長者像などとともに将来された像である。
像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との

伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来た。


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すべてを観たいのであるが、実を言うとホテルチェックアウト時間の11時までに

東福寺周辺のお寺、神社を巡り、ホテルに戻り精算して東京へ帰る予定なのだ。

とにかく、東福寺一画だけでも1日過ごせる寺院仏閣があるのに改めておどろかされた。

 

京都 奥が深い・・・・

| 日本を旅する・京都 | 07:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
先週金曜日、京都での仕事帰り、清水寺のライトアップを観てきました

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清水寺

清水の舞台で知られる。宝亀9年(778)延鎮上人が音羽の滝の上に庵を結び、

千手観音を祭ったのが始まりで、坂上田村麻呂が延暦17年(798)に長岡京の

旧紫宸殿を移築して堂宇を建造したと伝える。

断崖に立つ舞台造の本堂(国宝)は徳川家光が寛永10年(1633)に再建したもので、

優美な寝殿造が踏襲されている。

139本の柱が支える舞台からは京都市街を一望できる。

三重塔(重要文化財)も同時期の再建。この時期はカエデが見事に色づき、紅葉を

堪能することができる。

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今年の京都、紅葉が実にきれいであった。

 
| 日本を旅する・京都 | 07:21 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
福助のモデルとなったのは、「大丸」の創業者、下村彦右衛門という説もある
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下村彦右衛門は「福助」のモデルとしても有名。中国から輸入した綿糸を販売し、

巨万の富を築いた彦右衛門は、お礼として、瀧尾神社境内にて食事を振る舞った。

次第に人々は彦右衛門を「福の神のような人」と呼び始め、「福助」の愛称が定着した。

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そこで、伏見稲荷の人形師が、彦右衛門をモデルにした伏見人形を作ったところ、

大人気となり「福助」の名前が全国に広がった。
瀧尾神社では、鳥居前の人形師「欽古堂」に製造型を依頼して、

当時の「福助人形」を復刻。授与品として参拝者にお分けしている。


fukusuke1大文字屋

大丸の歴史
は、1717年(享保2年)、京都伏見の古着商の家に生まれた

下村彦右衛門正啓が、伏見に呉服店「大文字屋」を開いたことに始まる。

この時、正啓は、店のしるしとして○に大の文字が入った商標を採用した。

○は天下を表し、大は人と一を組み合わせたものとして、このしるしは天下一の商人

になろうという心意気を示したものであると大丸では伝えられている。

「大文字屋」の人気は上々で、9年後の1726年(享保11年)には

大阪の心斎橋に2号店を出店、続いてその2年後、1728年には名古屋に出店した。

この名古屋店で初めて、商標にちなんだ「大丸屋」という屋号を使用している。

| 日本を旅する・京都 | 07:46 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
京都土産というと「八つ橋」が定番だが、今回は「茶の菓」にしました
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マールブランシュの京都限定お菓子「茶の菓」です

特製ホワイトチョコレートをお濃茶ラングドシャで挟んだ、スイーツの新定番。


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茶作り名人 小島確二による「究極の茶葉」と、茶鑑定士 森田治秀による「究極の香り」、

そしてパティシエ 江崎靖彦による「究極の味」のコラボ。

まさに京都と巴里のコラボレーションです。

 

お菓子は京都宇治白川の抹茶(濃茶)がたっぷり入ったラングドシャを

特製ホワイトチョコレートで挟んでいます。
「白い恋人」にお茶の香りを加えたようで、とても好評でした。

宇治の茶といえば、こんな記事がネットに流れていました。

「宇治の抹茶で白髪染め 肌荒れ防止、癒やしの香り」

京都・宇治の抹茶を使った白髪染めを横浜の企業が考案し、サービスを導入した

京都市東山区の美容院で人気を呼んでいる。
京都市東山区の美容室「ビューティースタジオ龍」


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抹茶に含まれるカテキンの作用を利用して黒色を定着させる。

通常の髪染めでは色落ちを防ぐ酸化染料が肌荒れを起こすことがあるが、

その心配がない。
水で溶いて練った抹茶でパック。約30分後に流すと、ほんのりと抹茶の香りが

残る。月1回ほどのペースで訪れる客は「いつまでも癒やされていたい」と。

 

お茶には、多くの効用があるのですネ・・。

| 日本を旅する・京都 | 18:57 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
江戸時代の彫刻家「九山新太郎」作による龍がのたうつ瀧尾神社
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今回、京都で本当は一番訪れたかった神社が、実はこの「瀧尾神社」でした

神社の拝殿の天井に配された長さ8mもの龍は、全身をくねらせ今にも

動き出しそうな大迫力!

弁財天を祀っている瀧尾神社では、水にかかわりの深い龍を大切にしているのです。

社殿は天保年間の大修築時に貴船神社の奥宮旧殿を譲り受けて移築したものだそうだ。

貴船神社の奥宮地中深くには、龍神の棲み「龍穴」があるといわれています。


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雲上の龍、顔は鳳凰、四足、体にはウロコがあり、鳥のような爪を持つ姿は、

何の動物や霊獣を表すのかわかっていない。

少なくとも京都、奈良には、同様の霊獣が描かれた例は無いことから、日本でも1体しか

存在しない木彫りの像だといわれる。

彫刻は江戸時代 九山新太郎の手によるもの。
京彫刻の九山家は東本願寺、善光寺なども手掛け、当主は代々九山新之丞を

名乗る名門です。

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無垢材の木目を生かし、細かな部分まできちんと彫り込まれたリアルな姿は、

江戸時代の人々にさぞかし神秘的に見えたのでしょう。
「龍が夜な夜な抜け出して、川へ水を飲みに行っていっている」という噂が

まことしやかに語られていた。
龍が水を飲みに行ったという今熊野川は、境内のすぐ北を流れていますが、

今は暗渠(あんきょ)になっておりますので、龍が飛び出すことはないようです。

瀧尾神社は、京都・東福寺駅から5分の位置にあります。

| 日本を旅する・京都 | 07:41 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
京都「瀧尾神社(たきおじんじゃ)」は「龍尾神社」では????

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今回の京都であるが、今週3連休が最も混むと思うが、16,17日もホテルの
混みかたが異常だった。
それも2ヶ月前から手配でも。

大阪のホテルもその影響もあり、満室ばかりだった。

大阪についてはジャニーズの「嵐」のコンサートがあるために混んでいるのだそうだ。

ジャニーズ 相変わらずスゴイ!

私は例年、四条のホテルに泊まっていたがここも早々と満室。

取れたのが伏見稲荷に近いホテルがようやく取れた。

ここからは、東福寺も近いし、前から気になっていた「瀧尾神社」も近い。


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お参りしてみて驚いた!

今まで多くの、龍にまつわる寺社に、多くお参りしたが、瀧尾神社は

その中でも別格であるかもしれない。

実は、瀧尾神社は、「大丸百貨店」の礎を築いた天下の豪商・

下村彦右衛門が参拝していた神社なのだ。



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この壁の絵は、江戸時代の大丸呉服店の頃のものだが傷みが激しい。

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江戸中期に行商から大呉服商になり、今の大丸百貨店の礎を築いた

天下の豪商・下村彦右衛門。瀧尾神社は、その下村彦右衛門が熱心に

参ったことで知られる。

江戸後期の天保年間に完成した現在の社殿も、下村一族の資本によるもの。

2500両(現在価値で5億ほどと考えられる)という、豊富な資金を背景にした

再建は「何でも一流を」との考えから。

本殿や拝殿に豪華な彫刻がほどこされているのも、潤沢な資金のおかげだった。

しかし、今この額は傷んでいて見るに忍びない。
大丸さん 先祖に習いもう少しこの神社を大切にしないといけないのでは・・・・・・・

 
瀧尾神社がパワースポットとしてあげられるのには理由があるのですが、

何と言っても注目は、拝殿の天井に姿を見せる全長8mとも言われる

龍の彫刻です。

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   この拝殿の天井に8mの木彫りの龍の彫刻があるのです

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その迫力はまさに圧巻! 木目の位置を計算して掘られていて、それが躍動感を

出しているとも言われて、龍が夜な夜な拝殿を抜け出し、

近くの今熊野川まで水を飲みに行く、という伝説を産んでいる。

神社側では拝殿の天井に網を取り付けて、龍が自由に動けないようにしたという。 

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| 日本を旅する・京都 | 07:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
東福寺には、紅葉に加え「重森三玲」の手になる名庭がいくつかある

東福寺・通天橋を望む紅葉は、もちろん最高であるが
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     (先週11月17日(土)小雨の中で撮影した。今年の紅葉は素晴らしい)
今回、東福寺駅の近隣に驚くべき寺社が多くあることを発見できた。


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東福寺の塔頭寺院である霊雲院には、重森三玲の庭があるのに

東福寺の紅葉を見学にくる人々の目には入っていない。残念なことである。

東福寺へ行く路、少し右にはいったところにあるお寺なのに誰も行かない。

 

霊雲院は、
元中7年(明徳1年・1390年)に岐陽方秀によって開かれ、はじめは不二庵と

称していた。

岐陽和尚は、天龍寺第六十四世、南禅寺第九十六世、東福寺第八十世に

歴任した高僧。明徳4年(1394)に遣明船が明国から四書や詩経集伝などを

舶載した時、岐陽和尚がはじめてこれらに注釈を加えて講義をされ、後に

足利将軍義持に暑く帰依されている。
 

書院前(南)庭の「九山八海の庭(霊の庭)」は庭の中央に珍しい形の石塔が立っている。

この石塔は「遺愛石」といい、寛永年間(1624〜1644)に当時和尚の湘雪守元に

帰依した肥後(熊本)藩細川忠利、光尚父子から当院第七世湘雪和尚へ贈られたもの。

遺愛石と名付けた須弥台と石船は九山八海の庭における須弥山である。


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九山八海の庭

江戸時代中期に作庭され、久しく荒廃していたものを、昭和を代表する

造園家・重森三玲が昭和45年(1970年)に復元した

九山八海(くせんはっかい)とは須弥山を中心に八つの山脈と八つの海が

とりまくという仏教の世界観で、遺愛石(いあいせき)を須弥山に見立て、

白砂の波紋が山海を表現している。


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遺愛石

高さ三尺、横四尺余りの青味をおびた小石で、須弥台の上に設けた

四角い石船の中に据えられている。

7世住持の湘雪守沅は肥後熊本の人で、藩主細川忠利と親交があり、

湘雪和尚が住職として霊雲院へ移られる時に500石の禄を送ろうとしたが、

「出家の後、禄の貴きは参禅の邪気なり。庭上の貴石を賜れば寺宝とすべし」と

申された。そこで細川家では、遺愛石と銘じた石を須弥台と石船とともに寄贈した。


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臥雲(がうん)の庭


こちらも重森三玲の手によるもので、寺号霊雲を主題にした創造的な枯山水庭園である。

渓谷に流れる川の流れと、山腹に湧く雲を白砂や鞍馬砂で表現している。

 
| 日本を旅する・京都 | 07:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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