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紅葉の時期に毎年お会いする舞妓さん
宮川町の里乃さん
来年5月にいよいよ芸子さんに上がる素敵な人だ。
京都も雨だといわれた11月18日(金)に今年もお会いでき、舞って頂いた。
舞妓・里乃さんの後姿、だらりの帯が素敵である。
「だらりの帯」と言うと祇園小唄が思い浮かぶ
1 月はおぼろに東山
霞む夜毎のかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ
2 夏は河原の夕涼み
白い襟あし ぼんぼりに
かくす涙の口紅も
燃えて身を焼く大文字(だいもんじ)
祇園恋しや だらりの帯よ
3 鴨の河原の水やせて
咽(むせ)ぶ瀬音に鐘の声
枯れた柳に秋風が
泣くよ 今宵も夜もすがら
祇園恋しや だらりの帯よ
4 雪はしとしとまる窓に
つもる逢(お)うせの差し向かい
灯影(ほかげ)つめたく 小夜(さよ)ふけて
もやい枕に川千鳥
祇園恋しや だらりの帯よ
祇園の町並みを歩く姿もいいが、この東山の紅葉の中の舞妓はんも
またいい!!
京都の花街・祇園甲部の「都をどり」(4月1〜30日)の衣装合わせが2月24日、
京都市東山区の祇園甲部歌舞練場であり、芸舞妓(まいこ)24人が新調した
衣装でパンフレット用の写真撮影に臨んだ。
139回目となる今年の演目は
「春花 京都 名所尽(はるのはなみやこめいしょづくし)」(全8景)。
法然、親鸞をしのぶ50年に一度の遠忌(おんき)法要が来月から始まるのに
合わせ、西本願寺の梅、東本願寺の紅葉、知恩院の桜など、芸舞妓の
優雅な舞で古都の四季を描く。
鎮座1300年を迎える伏見稲荷大社の田植祭なども舞台に織り込み、
8景で踊りを繰り広げる。
都をどり おどりではなく、をどりなのです。
前に書きましたように、都が京都から江戸に移った明治初に、京の花街の零落を
食い止めるため(政府の要人や貴族がほとんど江戸に移り住んだ)、
当時の京都知事が伊勢の古市の遊郭で盛大に行われていた
「伊勢音頭」の踊りをお手本に始めたものでした。
祇園甲部歌舞練場で観たことがあるが、華やかで、美しい日本を感じさせる
数少ない伝統芸能でした。
ぜひ、ご覧いただくことをお勧めします。
「都をどり」
4月1日〜30日。午後0時半、2時、3時半、4時50分の1日4回。
2千〜4500円。祇園甲部歌舞会TEL075(541)3391。
花街「祇園」も一時、風前のともし火となる不況の時期がありました。
それは、なんと「明治維新」だったのです。
日本の夜明けが、逆に京都・花街の、壊滅的な打撃を与えました。
日本の夜明けの演出者坂本龍馬が、間接的に京の火を消してしまったのです。
明治2年(1869年)明治政府は江戸を東京と改め、千年以上続いた
首都京都を 江戸=東京に移した。
それにより、祇園を繁栄を支えた有力公家や官吏、商人が大挙して東京へ
行ってしまいお客を失った、祇園は火が消えたようになってしまいました。
この沈滞気味の京都を元気にするためになにをすればいいか考えた
京都初代知事長谷と参事槙村が、
第1回京都博覧会」を開催することを決め、これで産業復興を促進することとした。
しかし、いかに多くの観光客を京都に呼べるか悩み、「一力」のご主人
杉浦治郎右衛門に相談して、その目玉イベントとして
「都をどり」を考案したのである。
当時日本中に浸透していた「伊勢音頭」に想を得て、その形式を改良して新たな
祇園の芸妓だけで踊る集団踊りを創りだしたのでした。
「都をどり」の見本は、伊勢市古市の伊勢音頭であったのです。
私自身この「都をどり」が昔からあった歴史ある踊りだと思っていましたが
このような経由で、明治から始まったものだったのだ。
<京都五花街が華麗な踊りを開催しています。>
4月に春を告げる「都をどり」
「都をどりは〜」「よーいやさぁ〜」満開の桜を舞台いっぱいに花開き
春を告げる祇園甲部のおどりなのです。
鴨川をはさんだ先斗町では、5月に
「鴨川おどり」がある。
4月8日からは宮川町で
「京おどり」が開催され
上七軒では
「北野をどり」が4月15日から開催される。
祇園東は、11月1日から10日に
「祇園をどり」を開催している。
をどり と表示するのと おどり がある
旧仮名使いが「をどり」なのである。
素敵な方でした
東山・高台寺そばの美しい紅葉の中で私が写した写真です
里乃さんは祇園宮川町の売れっ子舞妓さんで、
前回お会いした時の青系の着物とまた違う艶やかさでした。
京都の花街(かがい)
第一番に頭に浮かぶのはもちろん祇園である。
京都花街には「五花街」がある。
祇園甲部
祇園東
宮川町
先斗町(ぽんとちょう)
上七軒(かみしちけん)
である。
<宮川町>
四条大橋に面し歌舞伎の南座があり、鴨川沿いに宮川町がある。
寛文6年頃から町並みが形成されてきたというが、その町の形成には
歌舞伎が大きな要因となった。
歌舞伎は京都鴨川の河原から発生したのである。
歴史でも名高い「出雲の阿国」によって大変な人気を集めていって
四条大橋付近は芝居町となっていった。
そして宮川町は、役者たちの住居が多く建ちならんでいたが
いつしか芝居目当ての客のために茶屋が増え始め宝暦元年(1751年)
花街として認可されたときは、宮川町全域がお茶屋だったともいわれます。
今も40軒以上のお茶屋があり、その風情を残している。
里乃さんもここ宮川町の超売れっ子舞妓さんである。
出雲の阿国
慶長8年(1603年)春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行った。
男装して茶屋遊びに通う伊達男を演じるもので、京都で大変な人気を
集めた(「当代記」、同年5月には御所でも「かぶき踊り」を演じた。
阿国は四条河原などで勧進興行を行った。なお、阿国の踊りを念仏踊り
と記した史料もある。
「都をどりはぁヨーイヤサー」の声ではじまる「都をどり」は、
祇園甲部の芸舞妓によるもので、100年以上の歴史があります。
明治5年、第一回京都博覧会の余興の「付博覧」として企画されたのが始まりで、
伝統と格式を誇る舞台構成を特色としており、装置の豪華さ、衣装の華やかさで、
人気を集めています。
祇園甲部歌舞練場
京舞は、京舞井上流家元、井上八千代の指導によるものです。
また舞台の前には芸舞妓によるお点前も行われます。
チェリーダンスとして、富士山と共に海外でも有名です。
上七軒を除く四カ所の花街で公演される「をどり」「おどり」です
4月に祇園甲部歌舞練場で華やかに開催されるのが「都をどり」
同じく4月に宮川町歌舞練場で開かれるのが「京おどり」
そして5月に先斗町歌舞練場で「鴨川をどり」
唯一、秋に開催されるのが祇園東の祇園会館で「祇園をどり」なのである。
私自身は、祇園甲部の「都をどり」しか鑑賞したことがありませんが
第一線の舞妓と芸妓が顔見世する、あでやかで美しい日本を感じるイベントとして
とても感動しました。日本人として、ぜひ観ておく舞台でしょう。
舞妓と芸妓・踊り手を立方(たちかた)と呼びます
舞妓
芸妓前の15歳から20歳ぐらいの少女。鼓や太鼓の伴奏も務める。
芸の修行期間が浅いので群舞が多い。振袖に帯を長く垂らすだらりの帯、高さ
10cmほどの「おこぼ」を履く。「おこぼ」は、桐の下駄で見た目は重いのでは
と見えるのですが、中心部をくり抜いてあり、持ってみるとその軽さに驚かされます。
写真でみるとよくわかりますが、祇園小唄に謡われた「だらりの帯」が舞妓さんを
強く印象づけます。
<祇園小唄の歌詞>
月はおぼろに東山
霞(かす)む夜毎(よごと)のかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖(ふりそで)に
祇園恋しや だらりの帯よ
芸妓
舞妓として5年ほど経験を積んだあと「衿かえ」という儀式を行ない芸妓となる。
深みのある踊りを見せるのが芸妓。
舞妓の日本髪は地毛だが、芸妓は、鬘(かつら)
伴奏者は、地方(じかた)と呼びます
踊りの伴奏である唄や三味線を担当する。地方は10年以上経験を積んで一人前
といわれる。立方から地方になることは少なく、最初から地方として活動する人が多い。
『宮川町歌舞練場』で開催される、宮川町の芸妓・舞妓が
総力を挙げての春の祭典『京おどり』が有名です。
芸妓サン・舞妓サンの数は京都五花街の中では、祇園甲部に次ぐ
2番目なのだそうです。
京都五花街とは、祇園甲部、宮川町、祇園東、先斗町、上七軒の五花街。
宮川町と言う町名は、八坂神社に由来しています。
歴史は元禄時代に遡りますが
室町時代に始まった祇園祭の時に、お神輿を洗う御神水を汲み上げる為
鴨川の四条から団栗の間を「宮川」と呼んだのが地名の由来だとか。
「出雲の阿国」が宮川の地で歌舞伎踊りを興行されて、芝居小屋が立ち並ぶ場所となり
宮川町は芝居茶屋の街として発展したのだそうです。
今回お会いした舞妓さんは、宮川町の美人舞妓で有名な「里なみ」さん
京ことば、立ち振る舞い、お客様あしらい
さすが、厳しい数年間のお稽古事や鍛錬の賜物
まだ二十歳前後だと思うが、落ち着いた物腰はたいしたものである。