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玄忠寺(二俣1丁目)
本寺の草創は、慶長13年(1608年)と伝えられています。
しかしながら、現在の通りから外れており、1回目には、
どこにあるか私には探し当てられませんでした。
伊勢在住の友人、東さんに場所を教えていただきまして、何とか探しあてました。
慶長13年(1608年)創建と伝えられていますが、やはり一度廃寺と
なっているため庭などは、少し荒れていましたが、とても興味深いお寺さんでした。
ご本尊と不動明王立像、弘法大師座像や、紀州徳川家の位牌をまつっています。
普段本堂は閉められておりますが、訪ねた時、偶然ご住職が
いらっしゃったのでご本堂を開けてご説明していただきました。
また、境内に弘法大師八十八か所の霊場碑があり、
ここを回ることで四国八十八か所巡礼が出来るようになっています。
伊勢は、神宮で成り立っている町なので、お寺をどうも粗末に扱いすぎるような気がします。
歴史ある素晴らしいお寺が、こんなにあるのに伊勢市は、手をつけていないことは、情けない!
「お伊勢さんへの道」No4
上社(辻久留1丁目)
「かみのやしろ」と読みます。 北向庚申塚のすぐ近くにあり、
このあたりが旧参宮街道のメインロードであったことを示しています。
昔、ここは、外宮の摂社志等美神社・同大河内神社・同本社打かけ神社が
あったのですが、戦国時代荒れ果て、このあたりの住人が地の神(産上神)として
祀って今日に至りました。
宮川堤を守護している神も上社のご祭神です。
川端町の柳の渡しを渡り伊勢神宮に向かう旧参宮街道、ですが、
度会橋が出来てからは、23号が真っすぐ伊勢市駅まで延び外宮に入れるようになり、
人もまばらになってしまいました。
さらに今は2本のトンネルを抜けて外宮へ向かえます。
江戸時代は徳川山を越えて歩いて行ったためこの上社や 北向庚申塚の細い道が
本街道だったと思われます。
3、北向庚申塚(辻久留)
青石材、伊勢市で130余の庚申塔中、青面金剛像では最古最大のものです。
青面金剛像は普通3面5臂像が多いのですが、この像は1面2臂です。
道の辻や、寺社や墓地の入り口などによく置かれ、延命長寿にご利益ある
といわれる庚申塚、その中で主流となるのは、「青面金剛刻像塔」 です。
この「青面金剛刻像塔」には、主尊の青面金剛以外に、日月や猿、鶏、
邪鬼、等が配されている。
青面金剛のほうは、本来奇病を流行らす鬼神で、猿の化身ともいわれる。
その容姿については、『陀羅尼集経第九』 に、
「一身四手、左辺の上手は三股叉を把り、下手は棒を把る。右辺の上手は
掌に一輪を託し、下手は羂索を把る。其身は、青色にして大張口、狗牙は上出す。
眼の赤きこと血の如くして三眼あり・・・・・」
とある。要約すると「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、
三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、
足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」姿で現されるが、
一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。
頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いている場合もある。
また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。彩色される時は、その名の通り
青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係している。
「お伊勢さんへの道」No2です。
宮川堤(中島1丁目)
宮川はその源を大台ケ原に発する延長およそ130キロメートル
にも及ぶ、三重県最大の河川です。
古くは渡会大河、渡会川、豊会川とも呼ばれました。
下流では古来しばしば氾濫を繰り返し、住民はそのたびに洪水の
被害をうけていました。
平安の昔、平清盛の築堤伝承をはじめ、近世徳川幕府からの巨額の援助を
仰ぐなど両岸住民の堤防の修築保全には、たび重なる努力が続けられていました。
寛永10年(1633年)たび重なる宮川の洪水の被害から人々を護るため、
自ら人柱となったのが庄屋・松井孫右衛門です。
その後は宮川堤が決壊したことがないと伝えられています。
宮川橋の辺りは桜の渡しとも呼ばれ、古くから桜の木が多くありました。
円山応挙に学んだ月僊(げっせん)の展示会が「伊勢古市参宮街道資料館」
で開催されていたので、行ってきた。
館長の世古さんにいろいろ教えていただいた。
月僊は、京都の浄土宗総本山知恩院に修行することとなり、写生表現を重視した
円山応挙の門に入り、与謝蕪村を尊敬し、中国の絵画をも学びました。
安永3年(1774)、月僊34歳のとき、知恩院の大僧正に頼まれ、当時荒れ果てていた
伊勢の栄松山寂照寺を立て直すため、そこの住職となりました。
その年の夏、台風被害を受けた御師春木太夫の建物の襖と屏風絵を頼まれていた
円山応挙が病気のため辞退し、代わりに月僊がそれを描き上げたのです。
こうしたことから、月僊の名が世間に知れ渡り、彼の絵を求める人が多くなりました。
月僊は、そうした求めに応じて絵を描いては報酬を集めたので、批判する人もいました。
しかし、彼は報酬を一銭も自分のものとせず、
すべて寂照寺の再興と貧しい人々の救済などの社会福祉事業のために使いました。
この素晴らしい功績を残した月僊(げっせん)について、
伊勢の人々はほとんど知らない。残念なことだ・・・・
さて「お伊勢さんへの道」No2です。
宮川堤(中島1丁目)
宮川はその源を大台ケ原に発する延長およそ130キロメートルにも及ぶ、
三重県最大の河川です。古くは渡会大河、渡会川、豊会川とも呼ばれました。
下流では古来しばしば氾濫を繰り返し、住民はそのたびに洪水の被害を
うけていました。
平安の昔、平清盛の築堤伝承をはじめ、近世徳川幕府からの巨額の援助を仰ぐなど
両岸住民の堤防の修築保全には、たび重なる努力が続けられていました。
寛永10年(1633年)たび重なる宮川の洪水の被害から人々を護るため、
自ら人柱となったのが庄屋・松井孫右衛門です。
その後は宮川堤が決壊したことがないと伝えられています。
宮川橋の辺りは桜の渡しとも呼ばれ、古くから桜の木が多くありました。
河崎の古書販売店ぽらんさんで店主と話しながら購入した平成6年に発刊された
「お伊勢さんへの道」伊勢文化会議所出版、
本誌は、伊勢路の歴史的文化遺産を5つのコースに分けて合計85か所を
ガイドしてくれていた。
伊勢出身であるが、知らない場所が多いので、一度この本に出ている場所すべてを
伊勢滞在中順次訪ねてみようとおもいたった。
25年前の本であるため、出来るだけ探し当てて順次再紹介していこうと思う。
まず、「柳の渡しコース」である。
1、柳の渡し路(川端町)
ここは、「上の渡し」であった。江戸時代宮川には橋がありませんでした。
少し下流に「下の渡し」があり、伊勢神宮に向かう参拝者がここ上の渡しで船か人足が
客を渡していたのです。
江戸時代この水辺には掛茶屋が軒を並べ賑わっていました。
明治44年度会橋の架橋で渡し船の業務は終了したのです。
この渡し場は、今の度会橋より上流にあったので参拝者はそこから真っすぐ行くと
筋会橋経由で外宮にお参りに向かったのである。