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三鷹にある「国立天文台」を初めて訪ねた
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「天地明察」を読んで以来、渋川春海(=安井算哲)に興味を抱いている。

「国立天文台」に春海の資料があることを雑誌「東京人」で読んでいた。

また、サイクリングコースに交差して天文台通りがあり、国立天文台が近くに

あることは知っていた。なかなか行く機会がなかったが今回初めて訪ねた。


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  奉納 内宮(伊勢神宮) 春海自筆 の署名 

「国立天文台」の天文機器資料館に、その渋川春海の作品の写本があった。

それは「天文瓊統(てんもんけいとう)」である。

天文瓊統(てんもんけいとう)とは、

江戸時代の天文書。元禄11年(1698年)に渋川春海によって著され、

正本は伊勢神宮に奉納され、副本が世に伝わった。

なお、正本は現在日本長暦など他の渋川の著作とともに

伊勢の神宮文庫(現在は神宮徴古館)に保管されて重要文化財指定を受けている。

8巻。5冊


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概要

占星術の要素の強い天文道から科学的な天文学への過渡期を示す書物である。

渋川独自の部分は巻1の前半部(序から「天文総論」)と巻7後半部の中国史論、

8の「元禄中所名星座」である。

1前半部では渋川の暦法論・宇宙論が科学的に論じられ、

8では中国伝来の星宿の日本における観測結果とその天変記録、

星の位置観測記録、自作の星図を掲載し、最後に「拾遺」「儀象」「陰陽祭」の

3論を載せて締めくくっている。

4の「二十八宿赤道宿度」は渋川自らの観測記録に基づく数値に修正している。

| 天地明察 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「天地明察」、渋川春海(はるみ)は伊勢神宮に立った
北極星出地の調査旅

春海は隊長の補佐役として東海道を下がる。

天体観測ゆえに、昼間歩行して夜に本格的な作業をおこなうという

非常な労働にも、建部、伊藤の二人の年配隊長の探究心を失わない行動は、

春海の心を刺激し昂揚を感じていた。

 

熱田を経由して伊勢に行く

「伊勢神宮」で観測隊の面々が「伊勢暦」を購入した。

京では暦の権威の筆頭の京暦、江戸では三島暦が使われていて、

大小月の割振りで時期によっては朔日だったり晦日だったり異なっていた。

権威の所在ごとに暦があることを再確認している時に、予期せぬ月蝕が起った。

それにより、800年使われている日本全土の暦を司る暦法の宣明暦に2日の違いが
あることが判明した。


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「天地明察」の本文より抜粋 


神道はその作法の古伝が失われて久しい宗教である。

何のための拍手か、何のための拝礼か、それらの行為によって何が得られるのか、

そうした教義がない。だが昨今は、優れた神道家たちにより、神道独特の宇宙観から

新たに意味が解釈され、急速に体系化されようとしていた。

<拍手(はくしゅと読まないで、かしわでと読む)の意味について>

左手は火足(ひたり)すなわち陽にして霊。
右手は水極(みぎ)すなわち陰にして身。

拍手とは、陰陽の調和、太陽と月の交錯、霊と肉の一体化を意味し

火と水が交わり火水(かみ)となる。拍手は身たる右手を下げ、霊たる左手へと打つ。

己の根本原理を霊主に定め、身従う。

 

このとき火水は神に通じ、神性開顕となって神意が降りる。
手を鋭く打ち鳴らす音は天地開闢の音霊(おとだま)、無に宇宙が生まれる音である。

それは天照大神の再臨たる天磐戸開きの音に通じる

拍手をもって祈念するとき、そこに天地が開く。

そして磐戸が開き、光明が溢れ出る

光明とは、いわば種々に矛盾した心が、一つとなって発する輝きである。

その輝きは身分の貴賤を問わず、老若男女を問わない。
恐れや迷いを祓い、真に求めるものを己自身に知らしめ、精神潔白となる。
春海は、2度、3度と拍手を打った。

 

「伊勢神宮」では8度の拍手たる八開手(やひらで)、出雲大社では4拍手の作法。
だが、このときの春海には3度で足りた。
                               以上

拍手(かしわで)の意味する事を今まで知らなかった。
太陽と月の交錯なのだ。拍手をもって祈念するき、そこに天地か開く。
今後は、ぱーんと鋭い音で拍手を打つようにしたい。
 

| 天地明察 | 07:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
春海が、さらに碁会の開催のため訪れた「日吉山王大権現」とは

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溜池山王側から上っていくと伏見稲荷のような鳥居のトンネルを通る

私の勤務先(赤坂)から徒歩7,8分の場所にある「日吉山王大権現」であるが

江戸時代ここでも碁会が開所されたようだ。

「天地明察」のなかで記述がある。

さて、「日吉山王大権現」(日枝神社)についてであるが


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日枝神社(ひえじんじゃ)の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)、相殿神として

国常立神(くにのとこたちのかみ)・伊弉冉神(いざなみのかみ)・

足仲彦尊(たらしなかひこのみこと)を合祀しています。
神社は太田道灌が江戸城築城にあたり城内鎮守として、1478(文明10)

武蔵国川越の無量寿寺から山王権現を紅葉山に勧請(かんじょう)したのに

始まります。

江戸時代は「山王大権現(さんのうだいごんげん)」・「山王様」と呼ばれ、

神田明神のお祭りとあわせ江戸二大祭、さらに浅草神社をあわせて

江戸三大祭の神社として親しまれました。

明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、

将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。
と、説明されていた。

この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する重要な地点にあたる。


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現在の「日枝神社」の名称は1868(慶応 4,明治元. 6.11)からで、明治天皇の命名

とされています。1915(大正 4)には官幣大社(かんぺいたいしゃ)に昇格しています。
昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958年)に再建されました。


しかし、この神社いろいろの呼び名があり、どう呼べば、ご明察なのかわからない。
「山王さん」「日枝神社」「日吉山王大権現」・・・
 
この神社の横で、北大路魯山人が「星岡茶寮」をひらいていたことは有名である。
| 天地明察 | 07:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「天地明察」の小説の中で渋川春海が訪れた神社について
まず真っ先に渋川春海(はるみ)が訪れたのが前述した

「渋谷金王八幡宮」であったが、


春海が、さらに江戸でお参りしたのが深川の「富岡八幡宮」,

そして、碁会の開催のため「日吉山王大権現」を訪れた記載もある。

観測で全国歩くなかで「熱田神宮」、「伊勢神宮」の記録がある。

まったく偶然であるがこのすべての神社に本を読む前にお参りしていた。


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「富岡八幡宮」には伊能忠敬の像がある。

伊能忠敬については「天地明察」の本の中で触れられることはなかった。


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富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)は、

東京都江東区富岡にある東京都最大の八幡神社

建久年間に源頼朝が勧請した富岡八幡宮の直系分社である。

日本最大の神輿と水かけ祭りが有名。大相撲発祥の地。

 

1624年京都の公卿であった長盛法師が訪れ、永代島に八幡宮の祠を建てたことが

富岡八幡宮の起こりとされる。いずれにせよ寛永4年(1627年)、周辺の砂州一帯を

埋め立てた総じて60,508坪の社有地を得、永代島と呼ばれていた現在地に創建。

源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けるとともに、

町民層にも「深川の八幡様」と親しまれた。広く美麗な庭園は人気の“観光名所”で

あったという。門前町(現在の門前仲町)も形成され、干拓地が沖合いに延びていくに

従い商業地としても重要視された。

現在の永代寺は、明治29年(1896年)に再建されたものである。


また、敷地内には江戸時代の測量家である伊能忠敬の像がある。

伊能忠敬は、当時深川界隈に住居を構え、測量の旅に出かける際は、

安全祈願のために、富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、

2001年に当八幡宮の境内に銅像が建立された。
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| 天地明察 | 07:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「天地明察」の映画を渋谷で観てきました

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小説の冒頭に出てくる神社「金王八幡宮」が実在する地 渋谷

ここにある映画館パルコ横の「渋谷シネパレス」

小さい劇場だった。最近は映画を観にいく若い人は少ないのだろう・・・・


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映画は、やはり小説と内容を変えていた。

岡田准一が演じる渋川春海(安井算哲)は、江戸初期に実在し、徳川家お抱えの

碁打ちでありながら算術、天文学を極め、改暦という大事業に挑んだ。

小説では算哲でなく春海(はるみ)の方を多く名乗っていたが、

なぜか映画では算哲で通していた。(?)


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       金王八幡宮の宝蔵院に保管されている算額


物語は会津藩屋敷から早朝、籠を飛ばして
「渋谷宮益坂にある金王八幡」へ向かう。
目的は、金王八幡宮に奉納されているはずの算額(算術絵馬)を見ることだった。

ここで、算哲は 算術家 磯村吉徳門下 村瀬義益の算額とめぐり合う。
そして、関孝和(市川亀治郎)の影を見ることになる。
また、美しい娘えん(宮崎あおい)とも出会う。 

ある日、そんな彼の才能を認めた会津藩主・保科正之(松本幸四郎)から、

日本全国へ赴いて各地の北極星の出地を観測する旅へ参加しろという命令を受ける
算哲は淡い想いを抱いていた村瀬塾のえん(宮崎あおい)に1年後に会いに来ると

約束し旅立つ。

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旅の中で北極星の主地を観測することの素晴らしさを再認識した算哲は、
心の友となった建部(笹野高史)や伊藤(岸部一徳)との出会いを別れの中で、
この暦作りが自分の生涯をかけての大事業になると感じていく。
その旅は予想よりも困難で長引いたために約束の1年を半年も過ぎてしまい。
ようやく村瀬塾へとやって来た算哲は彼女が他家へ嫁いだと聞く。

その後小説では算哲も結婚するが病気で妻を亡くし、同じように1人となっていた

「えん」と再婚する。

映画では水戸光圀(中井貴一)が算哲の大きな後ろ盾として描かれていた。

幾多の困難を克服して算哲の暦が、800年間続いていた宣明暦法の誤差を証明して

新しい暦を採用させるにいたる物語である。


長い小説を2時間のドラマにまとめることは難しい作業だっただろうと思う。

やはり、小説の方がずっと面白い。

 
| 天地明察 | 07:17 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「金王八幡宮」を訪ねた「天地明察」の主役 渋川春海は実在の人物だ

渋川春海 1639-1715(寛永16-正徳5)

中国からの輸入暦法を、ただ機械的に計算して毎年の暦を作っていた

日本において、みずから観測を行い、暦理を理解し、さらに新暦法を開発した

最初の天文暦学者


harumi渋川春海肖像画

将軍家碁所4家の一つ安井家の子として生まれ、わずか14歳で父の後を継ぎ

安井算哲と称して碁所に勤めた。

暦学を松田順承、岡野井玄貞に、和漢の書を山崎闇斎に学んだ。

その秀才ぶりにより幕閣の有力者である会津の保科正之水戸光圀らの知遇を得て、

改暦の成功を招いた。


当時用いられていた宣明暦法は800余年も前に唐で採用された暦法で、日月食の

予報法も粗雑で、さらに暦の季節は天の運行に2日も遅れており改暦の必要は

迫っていた。春海は元の授時暦をもって宣明暦に変えるよう進言したが、

授時暦による日食予報が失敗したため改暦は中止された。

春海は研究を重ね授時暦を日本の地にあうように改良し、これを大和暦法と名付け、

その採用を請い、1684年(貞享1)11月、ついにこの案が採択され

貞享暦として翌年から施行された


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碁所(ごどころ)という職種が江戸時代にあったことをこの本で初めて知った。

碁所は江戸幕府の役職の一つで職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄など。

寺社奉行の管轄下で定員は1名(空位のときもある)、50石20人扶持、お目見え以上。

囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、7段。

四家のうち安井家の算哲が物語の主役である。

 
| 天地明察 | 07:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
その渋谷金王丸の名声とは

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                               金王八幡宮境内にある「 金王丸御影堂」
渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)は、渋谷平三家重の子で、

永治元年(1141)8月15日に生まれました。

重家には子がなく夫婦で当八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が

妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。

そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。


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金王丸17歳の時、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を

轟かせました。続く平治の乱(1159)では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち

寄った尾張国野間の長田忠宗の謀反により敢えない最期を遂げました。

金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊

と称して義朝の御霊を弔いました。

(平治物語には、金王丸は出家して諸国を行脚し義朝の御霊を弔った、とあります。)

金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵の折は、密かに

当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。

壇ノ浦の戦いののち頼朝は義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう

昌俊(金王丸)に命じました。昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、

百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。

昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を

遂げました。

金王丸の名は平治物語、近松戯曲などに、また土佐坊昌俊としては源平盛衰記、

吾妻鏡、平家物語などにみえ、その武勇のほどが偲ばれます。

そして金王丸の名声により、当八幡宮を金王八幡宮と称するようになりました。

 

平家物語の平清盛に討たれた源氏棟梁 源義朝(よしとも)の部下であった。

その後 源頼朝から義経を討つ命を下されたが、自ら死を選んだのだ、

それが「渋谷金王丸」である。

 

八幡宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、

自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。

渋谷氏の後裔は全国各地に連綿と続いておりますが、明治の元勲

東郷平八郎元帥も渋谷氏子孫の一人だそうです。


渋谷ねぶたの金王丸
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| 天地明察 | 07:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
9月15日映画「天地明察」も全国で封切られた
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冲方丁(うぶかた とう)の第31回吉川英治文学新人賞、第7回本屋大賞

受賞作を映画化した『天地明察』で、V6の岡田准一が主役の安井算哲

(渋川春海)にふんし、宮崎あおいが妻・村瀬えんを演じる。


物語は、800年にわたり使用されてきた暦の誤りに気付き、正しい暦の計算と

作り上げた新しい暦の導入に奮闘した算哲の姿を描いた作品。

キャストに岡田、宮崎のほか、佐藤隆太、市川亀治郎、笹野高史、岸部一徳、

渡辺大、白井晃、横山裕、市川染五郎、中井貴一、松本幸四郎を迎え、

映画『おくりびと』で第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した滝田洋二郎監督

メガホン、久石譲の音楽という豪華な布陣での映画化となった。

  

算哲の強力な理解者である水戸藩主・水戸光圀役に中井貴一、

算哲に改暦事業を命ずる会津藩主・保科正之役に松本幸四郎という確かな布陣で

挑む『天地明察』は、楽曲製作に向けて原作と脚本を読んだという久石いわく

「江戸時代を扱いながら、今の日本が忘れかけている一番大切なことを呼び起こして

くれるはず」。

正確な“日本独自の暦”を作るため、大地と格闘し、その暦を導入するため

“天”というべき存在である朝廷に挑戦した算哲の姿を、『おくりびと』の滝田監督は

どのように映し出すのか? 映画も、おもしろそうだ。
私も久しぶりに映画館に足を運ぶつもりである。
| 天地明察 | 07:31 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
渋谷の発祥である「金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)」の由緒

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「金王八幡宮」


  御祭神   応神天皇(おうじんてんのう)品陀和気命(ほんだわけのみこと)

由緒

当八幡宮は、第73代堀河天皇の御代、寛治6年正月15日(1092)鎮座。

桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当武基は源頼信による

平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の

日月二旒を秩父の妙見山に納め八幡宮と崇め奉りました。

武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役の源義家の軍300騎余を従え

1番で参向し、仙北金沢の柵を攻略しました。

その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜りました。

義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する

妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請しました。

 

重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り

当八幡宮を中心に館を構え居城としました。

渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれ、

現在も境内に渋谷城砦の石が保存されています。


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渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)

を領していたので、当八幡宮は八幡通り(旧鎌倉街道)、青山通り 宮益坂 

道玄坂(旧大山街道)を中心とする、渋谷、青山の總鎮守として崇められています。


当八幡宮は、古くは単に八幡宮又は
渋谷八幡宮と称しておりましたが

渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになりました。

 

小説「天地明察」の表紙に書かれている月は、妙見山の月旗なのだ。

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| 天地明察 | 07:40 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
小説「天地明察」の舞台、渋谷の「金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)」

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「天地明察」の舞台、渋谷の
「金王八幡宮」にお参りしてきた。

冲方丁(うぶかた・とう)の時代小説「天地明察」が、本屋大賞を受賞したときに買い求め

ずっと読んでいなかったものを先日ようやく読み出した。

面白い!!

一気に読み終えた。

暦(こよみ)をつくることがこれほどの大事業だと思っていなかった。

疑問だった伊勢暦との関係もわかった。

book

主人公 渋川春海、(場面によっては安井算哲とも名乗る)が、江戸城から駕籠に乗り、

渋谷宮益坂にある「金王八幡(こんのうはちまん」の神社(やしろ))向かう。

目的は神社にある「絵馬」“算額奉納”である。

誰かが算術の問題を算額に書いて吊るす。「さあ俺の問題を解いてみろ」との挑戦状である。
それを誰かが解く。
正しければ「明察」と出題者が書き込み一件落着となる。
間違っていれば「惜シクモ」とか「誤謬ニテ候」と書き込まれる。

境内で、天才がいることを知る。また、将来を誓う妻・えんと出会う。

そんなことを思いながら、初めて「金王八幡宮」にお参りした。

渋谷駅から徒歩7分ほどのところに神社があったことすら知らなかった。

 

「明察」とは、ごめいさつ!(正解)の意味だった。

| 天地明察 | 07:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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